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農家の娘として、いま思うこと

今年も実家の田んぼで無事、稲刈りが終わりました。

言わずもがな、田んぼ仕事は天候に大きく左右される。生育時の降雨量や台風の影響は採れ高に関わってくるし、とくに秋に台風が直撃するとせっかく育った稲が倒れてしまい、稲刈りの作業量は膨大になる。秋の大雨も然り。
稲刈り機が入れられなくなって、まさかの手刈りになることもあって、そうなるとかなり大変。大変なんてもんじゃない!てくらいの作業量になる。
だから、うちの実家の田んぼの稲刈り時になると、天候がとても気になるようになる。雨が続いたりしないかな、大型台風が来たりしないかな、と。

今年は幸いにもそういった天候トラブルに見舞われることなく、6月に植えた苗たちが稲穂となり、無事収穫ができてほっとしています。

とはいえ、普段の農作業は実家に任せきり。例年家族で田植え稲刈りぐらいは、と手伝いにいくのだけど、稲刈りばかりは稲穂の生育具合と天候によって実施するタイミングを計って行うため、わたし達が手伝いに行こうとした頃には両親と兄夫婦で少しずつやってくれたおかげで、今年は何も手伝えないまま新米をいただいてしまいました。

エラそうなこと言って何もしてないやんけ、と兄に怒られそうですが本当なので返す言葉もありません。(^-^;

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数年前より、姉が勤務している会社の方から依頼されて新米をお譲りするようになり、毎年リピートしてくださる方と、その噂を聞きつけて買って下さる方で徐々にその数が増え、この時期は米ブローカーみたいになっている様子を見ていて、仕事も忙しいのによくやるよなーと思って傍観していました。

でも先日、両親と話していたら、いやはやこれはわたしだって出来ることはしたいなと思いあたることがあり、今年はわたしもSNSを通じて「実家でとれた新米いりませんか?」と欲しい方を募らせてもらった。

そうしたら想像以上にたくさんの方から欲しい!と言っていただいて、びっくり驚くと同時にとてもうれしかった。


というのも、両親と先日話していたときのこと。

我が家のように自家消費+α程度の作付けが可能な田んぼを先祖から受け継ぎ、家族で細々とお米を作り続けるような家が多い実家の周り。

両親世代の70代や80代がこれまで中心になってお米を作ってきてるのだけど、高齢化の波がここにももれなく押し寄せている。亡くなったり、体力の問題で続けられなかったり、なんてことはザラ。

そこでその子世代が後を継いでいければいいのだけれど、今の社会の中でのコメ農家の現状ってかなり厳しい。

お米って基本は、収穫するとJAを通して国に買い取ってもらうシステムなのだけど、この価格はJA側から提示される。つまり、今年は美味しいお米が出来たな、とか出来るだけ農薬使わずに作ったんだよな、という農家の想いや意気込みは加味されない。(まあいちいち加味してられないもの十分に分かるけれどね)

お米を作るときの経費、苗代や農薬、機械代なんてものを差し引いていくといくばくかも残らない買取価格。それに対してかかる膨大な作業量とエネルギー、人手、冒頭のような精神的なストレスだって加味すると、やってられるか、てやんでい!って気分になってもおかしくないわけで。

そうすると、わたし達のような子世代で、日々ただでさえ忙しくしている後継ぎたちは田んぼを手放していく。

もちろん全ての農家じゃないし、逆に農家の後継ぎでもないけど農業に希望を感じて新たに始める同世代の方たちもたくさんいるんだろうけど。(希望の星ですよね、最近本当にそう思う)

そうして手放された田んぼたちは休耕田となり、休耕田があらゆるところに点在しはじめると、まだ生きてる田んぼの世話をしているひとたちはさらに大変になる。雑草問題も出てくるし、採れ高重視で農業に参入した業者による、多すぎる農薬散布に悩まされるケースもある。

そんないま現在、実家の田んぼの周りで起こってる米農家の現状、そこに対するジレンマを訥々と話してくれたあと、父が
「田んぼは先祖から引き継いだ不良資産なんだ」とぽつりと呟いた。

それを聞いた母が、その田んぼがあるからこうしてどのように作られたか分かるお米が日々口にできて、こうして家族みんな健康でいられるんだから、と取りなしたのだけれど

不良資産、

悲しい表現だけど、いまの農家が抱える問題や不安を考えたら、そう言いたくなる気持ちも痛いほど解る。
そして、母の言わんとしていることも。その通りだ。

米の名産地で大がかりに作っているようなところはまた事情が違うのかもしれない。でもきっと、日本のあらゆるところにそんな農家がいるんだろうなと想像できる。


不良資産と言いたくなるのはきっと、経費と販売価格のアンバランスさ、という経済的な面だけじゃないんだと思う。

米が余ってるからと数年前まで実施されていた減反政策。その中でもお米が余剰だからと家畜向けの「飼料米」として作付けすれば補助金が出るという話に、わたしはかなりショックを受けた。家畜に食べさせるのが云々ではなく、農家の持てる土地や労力への冒涜じゃないのか、と感じた。

農家が田んぼ仕事を手放したり、モチベーションが上がらないのって
作っても、喜んで食べてくれてる顔の見えない哀しみも原因のひとつなんじゃないのかな、と。

姉の会社でお米を買ってくれる方が、
「米嫌いで普段なかなかお米を食べない息子が、このお米なら食べるんです」と数年前に言ってそれからずっとリピートしてくれることを、未だ父は嬉しそうに話す。

どんな仕事もきっと一緒なんだよね。
相手の悦んだ顔が見えると俄然モチベーションは上がる。

農家が暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も日陰も空調もない田んぼで汗をかきかき作業ができるのは、食べてくれるひとの悦びがあってこそ、なんだと。


そんな想いを聞いてさてわたしが出来ることは、と考えたら、自分の周りで作り手の分かるものが欲しいと思っているひとと、両親の想いが詰まった作物を繋げること。

結婚して実家を出て、街中に住むようになってつくづく感じたのは、作り手の分かる食べ物を口にできることがいかに尊いことなのか、ということ。
それまで当たり前だと思っていたけど、街中でそれを叶えるのはそれなりのエネルギーとお金がかかるのだと気付いた。

近いようで遠い農家と消費者、幸いにもわたしは実家と街中に住む友人の間に居る。そこを繋げたらお互いハッピーなんじゃ?と思った。

半年ほど前からそんなことを考えていて、新米収穫を機にようやく少しだけその想いを実現できたかなと感じています。


お米だけでなく、自家用の無農薬野菜を畑で作ってくれている父。泥だらけのお芋や、ガッサリ入れられた葉物類。父が作ってくれた野菜たちは、スーパーで買ってきた野菜と違ってまな板に乗せるまでの作業が多くて辟易しそうになることもあるけれど、でもまずはそこまで出来るのに父がどれだけエネルギーをかけてくれているのかが分かるから、とても愛おしい。どんな野菜だって同じだけど、作ってくれたひとが近いとその想いはまた格別になる。

美味しかったよ、そのひと言がまた父のモチベーションになる。そのモチベーションで健やかな体を育む農作物を生み、食べたひとの気持ちが豊かになる。

そんな循環が、家族内だけでなくもっと広がればいいなと思う。
体と心を育む食の根源を、その作り手を疲弊させたくないなと、強く思う。

そんな壮大なこと考えてるわりにやってることはまだまだ小さいけれど、
まずは今秋の我が家の新米を受け取ってくださる皆さまに、心より御礼の気持ちをこめて。
長い長い文章にお付き合いくださりありがとうございました。

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