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お肉屋のおじさん

「あぁ、奥さん。いらっしゃい」

京都に大寒波が襲った夕方、あまりの寒さに今晩はおでんにしよう、と近所のお肉屋さんに行ったその日も、おじさんはわたしの顔を見るなり笑顔になってそう出迎えてくれた。
最近の度を越した寒さをボヤき合い、だから今晩はこの牛すじでおでんにしようと思う、なんて会話をおじさんと交わした。「今晩もさらに寒くなるみたいだから、おじさんも気を付けて」という別れ際の挨拶に、「ありがとう、また」と、返してくれた。

そのおじさんが営む近所のお肉屋さんは家から数百メートル、歩いてもものの3分ほどの距離にある。だからこの地に引っ越してきて15年、早いうちからそのお店の存在には気付いていた。半世紀ほど前は大いに栄えていたらしい古い商店街の中にある、本当にここまだ営業しているの?と訝し気な気持ちで覗き込みたくなるような年季の入った店構え。そのあまりに古ぼけた店の様子に躊躇して、存在は知っているのに入れないまま十年以上を過ごしてきた。

初めて訪れたのは、ひとつ自分の殻を破りたくなったときだったと記憶している。コロナ禍に入り、明らかに自分の行動範囲が狭まっているとき、いつも同じような場所をぐるぐると散歩してコンフォートゾーンから出ようとしなかった時期の、小さな冒険だった。冒険と呼ぶにはあまりに些細な行動だけど、それでも気になっていた年数の長さゆえに足を踏み入れるのに少し勇気をもってようやく店内に足を踏み入れた、そのときもおじさんは「いらっしゃい」と、やっぱり優しい顔で出迎えてくれたのだ。おじさんの表情と言葉に、ここは間違いなくいいお店だ、と一気に安心感を覚えたことをよく覚えている。

それ以来わたしは、おじさんのお店のお肉の美味しさに魅了されて、週に数回は通うようになった。通い出してからのおじさんとの会話から、親世代からの営業だからもう60年以上、飲食店への卸をメインに、古くからの地元客も実はたくさんついていることも分かった。
「和牛」とひと言で言っても、黒毛和牛とそれ以外の牛では肉質に大きな差があること。さらに黒毛和牛の中でも、牝牛と雄牛ではまた脂の質が大きくことなること。雄牛はやはり少し筋肉質で硬さがあるため、和牛で求められる「サシ」を入れるべく去勢された後でさえも、やはり牝牛の脂の美味しさには適わないこと。おじさんのお店は、黒毛和牛の中でも牝牛にこだわり、その時々で一番いい産地から入荷し、販売していること。卸売市場での競り権を持っているからお値打ちに販売出来るのだと、誇らしげに話してくれたこともあった。確かに、同じようにサシが入ったように見えるスーパーのお肉と食べ比べてみても、数年前から脂の多い肉を食べると必ず胃もたれするわたしの体ですら、おじさんのお店のお肉は胃に残らない。表記上の「黒毛和牛」だけでは分からないお肉の善し悪しを教えてくれたのは、おじさんだった。

そんなお肉の知識だけでなく、これまでの生い立ちや家族のことなど、お肉を包んでもらいながら交わす些細な日常会話が楽しくて、おじさんのお肉屋さんに通っていた部分も大きかった。月に数回、ほんの15分ほど顔を合わせて、日常のちょっとした話をするだけ。でもそこには余計な緊張や遠慮もなく、ただただ温かな時間と柔らかな癒しがあった。

わたしがおでん用の牛すじを買いに行った翌朝、おじさんが亡くなった。

お店の2階に住んでいたおじさんが、いつも通り朝早くから仕込みをするべく業務用の冷蔵庫からたくさんのお肉を抱えて出てきたところで、倒れたきりそのまま亡くなったのだという。その翌週、わたしがいつも通りお肉を買いに行くと、一緒にお店をやっている弟さんがそう教えてくれた。信じられない、信じたくない。でも微かに店の奥から漂う線香の香りが、その話が本当だと語っているようで無性に悲しかった。

「亡くなる前日、夕方に買い物に来てくれて最後に話してもらえたのが、最後の挨拶みたいになっちゃって」その報せを聞いて呆然と立ちすくむわたし。わたしのその反応を予想していたのか、気遣いのあまり目を逸らしながら弟さんはそうフォローしてくれた。

おじさんの朝はいつも早かった。だからきっと倒れたのも早朝だと思うと、亡くなる数時間前に交わした最後のあの会話が頭の中をリフレインして、その日一日はなんだか一人だけカプセルの中にいるみたいな気分だった。あまりにあっけなくて、あまりに儚かった。

翌々週、わたしは体調を崩して2日間寝込み、その後もなんだかすっきりしない日が続いていた。一見普段通り、でもなんだかエネルギー不足で息絶え絶えな感覚が続いていた。

「この数年、近所のお店でお世話になっていたおじさんが亡くなった」ひと言で言ってしまえば大したことのない話のようで、わたしの中ではきっと大きなダメージを受けていたんだと思う。日常生活の中の、小さな衝撃。家族でなくとも関わりのあった大事なひとの死は、ひとの精神状態に大きなダメージを与えるのだと、自分の体調を振り返りながら痛感している。
体のメンテナンスのため定期的に受けているセッションで露呈した自分の身体のダメージ。今冬の寒さに体が冷えきっていたから風邪をひいたのかな、ぐらいに思っていたけれど、こうしておじさんの死を悼む文章を綴っていたら、わたしの体のダメージは明らかにその死を引きずっていたんだなと気付いた。

日常の多忙さに流されて、ついつい見落としがちな気持ちの綻び。気持ちに蓋をしても体は嘘をつけないから、それらを取りこぼさないように、体からのメッセージを丁寧に紐解く意識を持つこと。今の時代、必要不可欠な感覚だと感じています。ひとはきっとそれほど、強くない。そして、想像以上に繊細で脆いから。

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