無いものをなぞる


ゼミでの対話やエッセイの執筆をしていく過程で自分の頭の中を通ってきたことに、「自分と他人の境界」という共通項がある、と思った。


去年の私は、言葉によって人が通じ合うことの困難に打ちのめされたことがきっかけで、人は完全に孤独であるということを言い切った。
そのことが、自分と他人の境界線について考えていく、
スタートラインだったかもしれない。

今年に入って、卒論のために何か問いを引っ張り出そうとしたら、
なんだかやる気にならなくて一旦置いとく、を繰り返していた。
人生とか、言葉、とか色々と問いを立てては、漠然とした気分になった。
そうやって一口カジってポイしていたら、
自分の食べ残しに囲まれてしまった。

自分にとって重要なことなどないように思えて、
「別になんにもわからないままでいいけどな」とも思った。
はっきりさせなくてもいいじゃないか、
きちんと答えないでおくこともいいじゃないか。

随分都合がいいけれども、問いを問いとして残すことを、
「あいまいさ」という言葉で表現してみた。
あいまいであることは、善悪や正義とは必ずしも絡まない意味で、
なんだか「いい」ことだ、という気分になった。


そう思う一方で、はなから何にたいしても姿勢を正すことなく、
なんの問いも持たず、微笑を浮かべてぼんやり過ごすのは違うような気がしていた。あいまいであることやあいまいさを受け入れようとすることは、
それはそれで真剣な行為だと思った。


あいまいさについて色々な人の意見を聞こうと考え、一冊の本を図書館から借りて読んだ。


「多義的なものを一義的に定義して、物事を前に進めていく。研究していく。 そこでわかったことを思い通りに操作している現代。 だけど、定義されたものをあたかも現実であるかのように見ることが上手になりすぎて 本当はあいまいさで溢れているはずの世界を軽視しているのではないか」


自分のこれまでの態度への反省も含め、
こういうことを自分の言葉で言えたらいいなと思った。
問いを立てる時にやる気を失いがちであったのは、誰かの定義をそのまま自分の頭で捻り出した答えであるかのように錯覚している可能性があるからかもしれないと思った。
あいまいさという概念が、はまってきた。このまま行こうと思った。


読み進めていく中で、この本を編んだ河合隼雄さんが臨床心理士として、自分と他人の境界を起点に、自分という存在のあいまいさや、他人という存在の果てしない可変性について話していた。


去年、孤独という言葉から自他の境界線について考えてみて、
自分の体の輪郭がとても絶対的に思えていた。でも今、人と対峙し
関係性を持ち、互いに影響し循環する感覚について実感があり、
それを無視することなく自他の境界に考えていく必要があるとも思っている。

あいまいさというアイデアは、自他という境界について考えるときに、
考えが分散していかないように繋ぎ止めてくれるように思う。
歯でいう、歯茎。



境界線ということばに関連して、アートを例にあげてみたらどうかとも思っている。
「あいまいの知」の中で、ミルナーという画家の著作『描けないことについて』から引用されていたのを引用する。

「歴史上知られているもっとも古い素描のほとんどは、輪郭線をなぞるという性格のものである。これは注目すべき事実である。というのも描線は、完全なかたちでの視覚という現象とはいくぶん遠い関係にあるからだ。……境界線というものは、必ずしもはっきりとは定義されず、絶えず周囲のマッス(mass)に埋没することによりそれ自体は失われてゆき、その後再び取り上げられて再定義される。したがって視覚という観点から言えば、一本の線は貧しいものに思われるのである。」(Speed, 1923, p.21)

アートはそれを生み出す人の主観と客観の揺らぎのようにも思えるし、
線によってそれが表現されている。
線について、その感情的な役割と必要性について深められる気がする。

線は見ているものをそれ自体の内部に閉じ込めることができる。
過去の自分のエッセイから、自分の体の輪郭線を、
自分が絶対的に孤独であることの根拠だと思っていたが、

その背後には
自分を自分の内部に閉じ込めておきたい気持ちがあったかもしれない。


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