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ヒンズー教と仏教の原風景ⅩⅥ

ヒンズー教と仏教の原風景ⅩⅤ」までの話の流れで、なんで突然フランク・ロイドは「結界」「浄不浄」なんて説明し出すんだ?と思われるでしょうが、これがヒンズー教のカースト、密教、タントラ、真言密教立川流、性的儀式を信奉する名称不明の密教集団である「彼の法」集団、荼枳尼天なんて卑猥で淫乱な神様というワタシ好みの話題につながりますので、ちょっと触れておきます。まあ、しかし、密教なんてのは、仏陀は草葉の陰で嘆いているでしょうねえ?仏陀の嫌った偶像崇拝の曼荼羅なんてのも拝みますから。精液や愛液を荼枳尼天の像に塗りつけて拝む、なんて私の好きなことを平気でしますんで。女嫌いの仏陀が聞いたら卒倒しますね。

●結界

前々回、祇園精舎の寄進の話をしたので、それに関連する話。祇園精舎には、サンガ(僧伽)と呼ぶ僧衆が居住する「僧坊」がありました。そこは「結界」の内側。

結界という言葉をどこかで聞いたことがあると思います。

「きれいなもの」「祓い清めたもの」を「浄」、「きたないもの」「ケガレたもの」を「不浄」と言います。ある場所において、浄と不浄の線引きをすることを「結界を作る」と言います。

インドで、比丘(仏僧)、比丘尼(仏僧尼)の生活する空間をサンガ(僧伽)と呼びます。前回の「ヒンズー教と仏教の原風景ⅩⅤーお寺の建築物の構成」で述べましたが、僧衆が居住する「僧坊」のことです。

●元々の結界の意味

元々の「結界(Wikipedia)」の意味は、修行をしている男女の仏僧の生活する「僧坊」と一般人との空間をわけるために(一般人のグラマー美人が仏僧の生活空間をウロウロしたら修行できないでしょ?)こっちからは修行する人の生活する場所だからね、おいそれと入れませんよ、という線引が「結界」でした。

●『マヌ法典』に見る浄・不浄観

話が広がりますので説明しませんが、こちらのPDF資料『マヌ法典』に見る浄・不浄観について』をご参照下さい。これは、ヒンズー教というよりもバラモン教ですね。仏教以前からある宗教というか社会習慣というか。バラモン教、ヒンズー教などの教義の支柱となった法典です。生活規則を中心に書かれたもので、アレしちゃいけない、コレしちゃいけない、これは「浄」、これは「不浄」なんて書いてあります。

紀元前ニ世紀から西暦ニ世紀の四百年ほどをかけて整備された法典、仏教で言えば経典の中の律(戒律)を述べたものです。仏陀入滅三百年後の時代、アショカ王が仏教を国家宗教にして、仏教が興隆した時代とだぶってます。

●カースト(身分制度)維持のための『マヌ法典』

この法典、バラモン・ヒンズーのカースト(身分制度)維持のために大変役立ちました。カーストって、どれが「浄」、これが「不浄」で分けないといけないので、その指針ですね。ちなみに、カーストは、バラモン(僧侶階層)、クシャトリア(王族・武士)、ヴァイシャ(一般市民)、シュードラ(奴隷)と続き、奴隷以下、近くに寄ってもアカン!というアチュート(不可触賤民)と大まかにわかれまして、その中もさらに細分化されています。異なる階層の男女は結婚できません。

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●出産・大小便の排泄は不浄

マヌ法典』に見る浄・不浄観について』で書いてあるのは、例えば、人の誕生、これは不浄です。誕生は、死と同じく「穢、汚れ」ていて「不浄」なんだそうです。まあ、血は出るは後産なんてのもグニュグニュ出てくるので、確かにバッチイと思ったんでしょう。新生児は両親の罪を受け継いで生を得るので不浄なんだそうです。誰が考えたんでしょうか?

だから、出産に際して、 父親は沐浴(水浴び)して穢を落として、清浄にならないといけませんし、母親は出産後三日三晩清めの儀式をしないといけません。

大小便だって大変です。大小便後には清めが必要で、小便のときは土を使ってチ◯ポに清めを一度、大便のときは尻に清めを三度、片手(左手)を十度 , 両手を七度清めます。これは家長の清浄法で、学生はその二倍、林住者(行者)は三倍、遍歴者(流れ者)は四倍、清めをしないといけません。

切りがないのとカーストの話は、すると長いので止めますが、、まあ、こういう生活規則がものすごくいっぱい書いてあるのがマヌ法典なんです。読むと呆れ返りますよ。

●「結界」が「特殊なエネルギーを保持した神秘空間」になっちゃった

話をもとに戻しますと、元々は、仏僧、仏僧尼の生活空間を区切って、こっからは修行する人の場所、一般人お断り!という軽い考えだった「結界」という考えが、小乗仏教から外れた大乗仏教の密教の神秘主義とマヌ法典的なヒンズーの不浄の概念とくっついて、「特殊なエネルギーを保持した神秘空間としての界」というものになっちゃったんです。偉そうに。大した事のなかったものに箔付けするんですわ、坊主は。

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●神道の結界

これはアニミズム的な考えでもありますから、日本の古神道や神道の神社でも、密教と似たような「結界」の考えがあります。浄不浄の考えもマヌ法典と同じじゃないですがありますよね?「結界」は仏教用語ですから、神道では「端境(はざかい)」「境」とも言います。

これは私の別のシリーズ「縄文海進と古神道、神社、天皇制」の方の話になってしまうんですが、神道では、神の依代の鎮守の森、森林、山、丘、海、川、岩、木は、境があって、内側が「結界」になります。入っちゃいけません、入山禁止とか女人禁制とかの区域です。神の依代の神域・常世の世界と現世の端境で、結界で区切られている。

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日本では、葬式の陣幕やしめ縄、鳥居などが境、結界の内と外というわけです。死体は不浄ですから、葬式の陣幕は不浄の結界、しめ縄や鳥居の内側は浄の結界。

●日本の集落の結界

日本の村、集落の外れに置かれた道祖神や庚申塔、小さな石仏が祀られる社(祠)も結界を示すシンボルです。

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現代と違って、集落と集落、村と村が孤立していた昔では、個々の集落はそれぞれがひとつの島のようなもの。そんな集落どうしをつないでいたのが街道(道)。

災厄はいつでも道を経由して集落に入ってくると昔の人は考えました。それを見張って、防いでくれるのが、集落の外れに祀られた道祖神ですね。

だから、昔の人は、集落の外は神の世界であったり、死者の世界(黄泉の国)であったりした。常世の世界と現世というわけです。この端境を道祖神が示していた。常世の世界という異世界からの禍わざわいが間違って集落に入ってこないための防波堤の役割をしていました。



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