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ヒンズー教と仏教の原風景ⅩⅤ

●お寺のグランドデザイン

仏陀入滅百年後、第二結集が終わって、悶着はあったが仏典のパーリ語編纂も一段落が着いた。祇園精舎にインド北西部から帰依してきた若い仏僧が北東部出身の先輩仏僧にたずねた。

「この祇園精舎もいいんですが、これから各地にお寺も建てないといけませんでっしゃろ?」
「まあ、そうだな」
「そうするとですな、お寺のグランドデザインちゅうか、基本設計を考えなあきませんやろ?」
「キミは洒落たことを言うねえ。うん、それで?」
「まずでんな、バラモンやヒンズーの寺院みたいなのを模倣してもしょうがない思いますんや。それで、何か斬新なモニュメントの建造物を建てて、シンボリックなものを安置したらどうですやろ?」
「具体的にはどんなものなんだ?」
「わてが考えたのは、お椀を伏せたような白い建物。これにシンボリックなものを安置するんですわ」
「そのシンボリックなものってのは何だね?」
「例えばでんな、こういっちゃなんですが、荼毘に付されて長老のところにある仏陀のご遺骨、これを分骨するってのはどうでっしゃろ?」
「おい、恐れ多いことを・・・」
「いや、仏陀の律には、解脱したり輪廻転生をした後の肉体はただの抜け殻いっちょります。それを荼毘に付して、ご遺骨にしたとしても、単なる物質でんがな。そのご遺骨を教団のために使って、何がわろかろうかと思いますんや。兄さんからも長老にお願いしてくんなさい」

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ということがあったのか、なかったのか。この若い仏僧のお寺のグランドデザインが、比丘(仏僧)の集団決議で採用されてしまいました。

●誰が仏陀の遺骨の分骨なんて思いついたのか?

私は昔から不思議に思っていたんですよ。誰がストゥーパ(仏塔)に仏舎利(仏陀の遺骨)を収めてモニュメントにするというアイデアを出したのか?って。元々の仏教始め、原始バラモン、ヒンズーのしきたりでは、死体は荼毘に付してガンジス河とかに撒いちゃう散骨でしたので。日本の大乗仏教とアニミズムの混淆のしきたりの先祖代々の墓とかで、お骨を大事にするなんて風習は仏教にはないのですから。

だから、仏陀の遺骨だって、無意味で散骨してしまっていてもいいわけでした。それを分骨して、ありがたいものとして、ストゥーパ(仏塔)に仏舎利(仏陀の遺骨)を収めるという画期的なアイデアを出したのは、年取った高僧じゃなくて、若い仏僧だったんじゃないかと。経典にこんなことは確か書いていないはずですが。

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島国スリランカや日本と違い、インド人は中国人と同じ、根っからの商売人ですから。マーケッティングに長けた若いインド人仏僧がいたはず。それで、日本と同様、それは北西地方、関西人の人間だったはずです。

●お寺の建築物の構成

さて、お寺のグランドデザイン、モニュメントの仏塔はいいとして、お椀を伏せたような真っ白の仏塔だけでは殺風景。それにあまりに抽象的。ありがたみがない、ということで、礼拝の対象を祀る「堂塔」と僧衆が居住する「僧坊」を考えました。

「堂塔」には何を置こうか?と知恵をしぼって、あ!仏陀の涅槃像だ!と思いつく。釈迦が入滅する際に横たわっている像ですね。涅槃像は仏塔と違って、ヒンズー教みたいに原色で目立つようにしてしまえ!と。仏陀はそんなもん作るな!とは言っていない。言っていなければいいわけでして、経典に書かれていないものは、やっていい!という仏陀の意図をぜんぜん考えていないことを平気で坊主はします。

それで、涅槃像だけでも殺風景だな?と思って、そうだ!ヒンズー教では仏陀はヴィシュヌ神の九番目のアヴァターラ(アバター)といっとるやんけ!だったら、ヴィシュヌ神とかヴィシュヌ神の他のアバターの像だって祀ってもおかしくないわな?ということで、仏陀の涅槃像の回りに、仏教と本来なら関係のないヒンズーの神々の像まで祀ってしまいます。仏陀が草葉の陰で泣いております。

こうして、仏教寺院の現代まで続くグランドデザインの原型ができあがりました。やれやれ。

●初期仏教の致命的な欠点

さて、仏陀入滅ニ百年後の第三結集の頃。国家宗教に成り上がった仏教です。この初期仏教には、元々の致命的な欠点がありました。

日本でも、仏教ってのは、葬祭仏教に成り果てて、仏教を思い出すのは、日々の生活の導きなんざではなく、家族・親族が死んだ時のお葬式の時ですわな。

しかし、元々の仏教には、冠婚葬祭なんて考えは入ってません。ひたすら選ばれし比丘(仏僧)がいかに解脱するか、を祈祷祈願するものでして、輪廻転生の輪に取り込まれている一般大衆なんざ知ったこっちゃないわけです。大衆迎合いたしません、ポピュリズムいたしません、という選ばれし比丘(仏僧)への選民宗教です。一般大衆はお布施を差し出して、それを支えればいいんじゃ!という考え。

スリランカでは、寺院の運営とお墓の運営は別。人が死んだ後七日後に坊主を基本七名呼んで、家に彷徨っている霊魂が七日後に輪廻転生するためのお祈りをするくらいはしますが、人が死んだ時、死んだ後は面倒見ません。基本的にお墓もない。焼き場で散骨を依頼します。お墓があっても先祖代々なんてない。ランダムで輪廻転生するので、先祖とかの概念はありません。この世で親戚なのは、たまたま偶然、ということです。

さらに、仏陀、奇跡を起こすような行為、加持祈祷、呪術なんてもっての外、わしは死者でも蘇らせるが、そんな大衆迎合ショーをしちゃいかん!とキリストのようなことを言いました。いや、キリストは死者を蘇らせたね?ゾンビ化させて。

大衆迎合、ポピュリズム、お葬式、墓地運営は、大きな収入源。国家宗教だけが頼りの綱、ということが第三結集時の現状。それに高僧は、衆生のことなんか考えないで、ひたすら仏教経典の解釈に集中しております。

仏教伝来

●こりゃあきまへんわな!仏さん、増やしましょ!

そこで、またまた、関西人の若い僧が、こりゃあきまへんわな!と新しいビジネスモデルを考え出しました。ビジネスマンですわ。いくら、緊急避難的にカーストのきついヒンズー教から人間皆平等の仏教に改宗する人間がいるとはいえ、それら衆生の救いというアフターケアがないのはアカンし、第一、収入源が国家と金持ちの寄進が主という経営は安定しまへんがな、と若い僧は考えました。

まず、仏陀、つまり解脱した釈迦だけじゃあ、寂しいじゃあありませんか?もっと、釈迦の手前の状態とか、その手前の状態を作って、釈迦絶対じゃなくて、ランキングしましょ、と若い僧は考えました。

そうだ!まず、釈迦の位階が最高位。これを「如来」と呼ぼうと。その手前で、まだ「如来」にならない修行中の状態を「菩薩」、その下を「観音」、その「菩薩」「観音」のアヴァターラ(アバター)を「明王」、昔からあるヒンズーの地方神など、例えば、持国天、増長天、広目天や弁財天なんかを「天部」としようと位置づけました。

一気に、増えたじゃん!

●みんな救わなあかんがね?金になりまへんがな!

さらに、大衆迎合、ポピュリズムの一貫として、「衆生皆菩薩・一切衆生悉有仏性・生死即涅槃・煩悩即菩提」なんてでっち上げた。仏陀が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たでしょ?

自分たち(衆生、一般大衆)もこの仏陀の精神(菩提心)にならって六波羅蜜の概念の理解を通じ善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れるんですよ、だからこの世の信心は無駄じゃないのです、輪廻転生を繰り返した先に、あなたも、キミも仏陀になれる!というスローガンを新しいお経にしました。

●秘密ありありにして、ありがたみを増そう!密教じゃ!

さらに、別の若い僧は、秘密なし、奥義なしじゃあありがたさも失せる、これを顕教と呼ぶとして、真理そのものの姿で、容易に現れない大日如来というのを創造、その大日如来が説いた教えで、秘密めいて、呪術や祈祷をする密教なんて、儲かりまんなと密教を勝手に作り上げました。根拠なし。ますます、仏陀は草葉の陰で嘆いてます。

まあ、この密教は、空海(弘法大師)が中国から持ち帰り、天皇家や公家の加持祈祷サービスを行って話題になりました。最澄(伝教大師)も密教を持ち帰るのを忘れたので、空海さん、お経貸しとくなはれと天台宗にも導入。まあ、空海、最澄が彼の講義も受けずにお経を書き写すばかりなのを怒って絶交するんですがね。

と、大乗仏教も西暦一世紀頃から小乗仏教から分派して形成され始めました。それと、密教も。

●女性も取り込んで、セックスあり!のタントラはどうだ?

さて、お次は、仏陀が女性に対して、「美人といっても、それは要するに皮一枚のことで、その皮の下には大便や小便などが詰まっている。だから美人とか何とか言ったところで、こんなものは『ただの糞袋ではないか』と。そんな汚い物には私は足も触れたくない」と罵倒した女性をどう扱うか?もう、女性蔑視の極みが仏陀ですから。よほど、女で懲りたんでしょうね?

女性と言えば、男性。男女と言えば、セックス。これを嫌っていたんじゃ片手落ち、とばかりに、チベット仏教が今度はセックスも取り込んじゃおう、と考えたのが、タントラ。ヒンズー教ではこの考えは昔からある。仏教も取り込んじゃいましょうと思った若い僧がまたまたいたんですね。

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タントラとは、ヒンズー教では、神妃(シヴァ神妃)になぞらえられる女性的力動の概念シャクティ(性力)の教義を説いた聖典です。密教の一部なんですね。オドロオドロしい。

仏教も西暦八世紀頃から、エッチを導入。

タントラ ー 仏教

インドの後期密教では、それまでほとんど行われなかった性的行法や生理的行法が大胆に入され、仏の世界の女性原理を般若波羅蜜(仏母、すなわち悟りを生む智恵)とし、般若波羅蜜を生身の女性(大印、マハームドラー mahāmudrā、または明妃、ヴィディヤー vidyā)、特殊な魔術的能力を有するとされ、人身供犠など特異な儀式を行う瑜伽女輪(yoginīcakra)または荼枳尼網(ḍākinījāla)と呼ばれる集会を催すアウトカーストの女性(ヨーギニー、瑜伽女、魔女)たちと同置して、彼女らと性的にヨーガ(瑜伽、合一)することで、中性的真実在の現成(悟り)、即身成仏を目指した。
インド密教において瑜伽女(ヨーギニー、ダーキニー)は、下級の鬼神を出自としながらも、半女神から至高の存在にまでなった尊格を体現する女性であり、男性ヨーガ行者にとっての理想的な、仏教徒によって教化された従属的な性ヨーガのパートナーとしての女性でもある。

行法としての側面から見ると、男性の女性支配が前面に出ることもあれば、男性ヨーガ行者が畏怖する存在として、彼らから自立し優越する瑜伽女という側面もあり、共に母なるもの、般若波羅蜜を具現した存在であるとされ、その女性観は両義的である。

儀式において阿閣梨の性ヨーガの相手を務めた女性については、ヨーガに熟達した女性指導者であるとも、または儀式に捧げられた16歳(または12歳から25歳)の若い処女であるともいわれる。文献には、性ヨーガの相手としての大印、明妃について、容姿と若さへのこだわりが見られ、これは教義の面だけでなく、若い美人を相手にしたいという日常的な観点も無視できない。
性ヨーガによる成仏を唱えたことで、左道密教として嫌悪されたが、その本質は「インド的精神性の原点への復帰」であると考えることもできる。左道密教は儒教的倫理観の強い中国では受け入れられなかったため、日本にも導入されていない。

あらら、仏陀の「美人だって単なる糞袋」思想はどっかにいっちゃいましたね。仏陀の女犯厳禁!仏僧はセックス禁止!女厳禁!この世は地獄、解脱が天国!はどうしちゃったんでしょうか?

仏陀、ひたすら泣いています。号泣!




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