弱者男性はどうすれば救われるのか?

まず最初に断言する。彼らが救われる事は100%ない。少なくとも政治的に正しく誰もが納得する方法で救われることは絶対ない。

「弱者男性」という言葉の語源について軽く触れると、その前進は一柳良悟氏が提唱した「キモくて金のないオッサン」という概念だろう。一柳良悟氏は「障害グレーゾーンにありながらグレゾーン故に公的支援を得られずキモイ故に私的支援も得られず金がなく貧窮している中年男性」と言った意味合いで使用した。これが後に「男性は男性というだけで公私において支援を得にくい」「同情や共感されやすさには男女で格差がある」「男性は如何なる時も強者としてみなされる」等の問題も掘り起こされ、「弱者男性」という概念に至った…というのがコノ議論を追っていた自分の雑感である。謂わば弱者男性とは「不可視化される男性困窮問題」の擬人化だ。

こうした言葉が浸透し頻繁に話題にあがるようになったのは良い事のように思われるが、実際はご存じの通りこれは現在もっぱら「非モテ」に代わる侮辱語として使われている。更には「本当の弱者男性は決して声をあげられず…例えばX(Twitter)も出来ないから弱者だ」「弱者男性について語りたいならまずその具体的定義せよ」と不可視化される困窮男性への問題提起の言葉が今では困窮男性の不可視化に使われてすらいる始末だ。

実際Xには精神疾患者、障害者、低学歴者、低所得者…といった男性困窮者がのたうち回ってる様子が頻繁に観測され、彼等は時にはスクショで晒され「弱者男性w」と嘲笑されている。それは逆説的に彼等が社会において劣位にあるもの=弱者だと認められている証に他ならない。にも関わらず弱者男性の議論になると1転して彼等は「貴方は真の弱者ではない」と言われてしまうのだ。

この現象こそが弱者男性論の核である。つまり男性はカジュアルにその劣位性=弱者性を指摘され殴られるにも関わらず、その困窮が認められるには生活保護申請並みの厳しいハードルが課せられるのだ。実際男性困窮者が「貴方は精神疾患あって無職だけど高学歴だから真の弱者とは言えない」「貴方は借金あって孤独だけど住居はあるから真の弱者とは言えない」「貴方はインターネット出来るから真の弱者とは言えない」と弱者でないことから逆算され生活保護の水際作戦の如き駄目だしされる光景は決して珍しくない。弱者でありそのように周囲に扱われるにも関わらず弱者と認められない、これこそが弱者男性の生き辛さの根幹である。

弱者男性の具体的定義

が求められるのこそ正に「男性困窮者は不可視化される」の具体的事例である。例えば私が弱者男性の具体的定義として

・低所得かつ実家等の資産も乏しいこと
・精神疾患或いは障害があること
・定期的に連絡をとれる友人・知人が1人もいないこと

と定義したとしよう。この定義は概ね弱者男性の実態に沿ってるものであると私的観測範囲から断言出来るし、異論を挟む方も少ないだろう。しかしながら、これは多くの困窮者男性に対し「貴方はこの定義を全て満たしていないから弱者男性ではありません」と告げ、彼等を不可視化してしまう営為だ。例えば相談出来る友人1人はいるものの、低所得で精神疾患があり困窮している男性はこの定義だと「真の弱者」ではないとされ切断処理されてしまうのだ。

これはイジメ問題に置き換えれば、その異常さが分かりやすいと思われる。クラスメイト9人にイジメられ辛いと言ってるいじめられっ子に対し「でも貴方は1人友達がいるからいじめられっ子ではありません」「本当のいじめられっ子は自分が虐められていると訴える事も出来ません」と説く人間は皆無だが、弱者男性には同じような言説が平然と唱えられているのだ。ましてやイジメに対して「虐めの具体的定義をせよ」等と言うものなら、話にならないと直感的に分かるだろう。イジメはイジメであり、それに対して殴る/無視される等の細かい定義をすることの虚無性は言うまでもない。

端的に言えば、みんな弱者男性に手を差し伸べたくないのだ。それ故にアレコレ理由をつけて真の弱者ではない事にし、その後ろめたさを「本当の弱者は声をあげられない」というポルノで浄化する。

とここまで言っても尚「でも具体的に定義しないと弱者男性が何に困ってどのような支援が必要なのか分からないじゃないか」と言う方もいるだろう。しかしこの問いの答えは単純だ。シンプルに「まずは彼等を不可視化するな」の1言である。更に言えば弱者男性は構造問題であるので、1人1人の属人性に着目する時点で既にピンとがズレてるのだ。

封殺される弱者男性

そしてこのような弱者男性問題が語られる時に、その具体的定義と並んで語られるのが「弱者男性は声をあげられず弱音を吐けず男らしさの自縄自縛になっている」という論だ。これはメンヘラ界隈を見れば秒で嘘だと分かる。良い悪いは別にしてメンヘラ界隈で疾患や障害カードバトル(症状の重さでマウントを取り合う)やるメンヘラ男性、良い悪いは別に彼等には男らしさの欠片もないし弱音を吐きまくってる。

そんな彼等に対して投げかけられる言葉はこんな感じだ。「社会を呪うよりまず自分が何を出来るか考えろ」「他者のせいばかりにするな」「そんな事を言っても人生は何も改善しない」…いずれも正論だ。しかしながらその正論が例えば女性問題に関して唱えられる事はない。今国会ではホストクラブで散財&借金し過ぎて売春や脱税といった犯罪に手を染める女性を如何に救うか?が議論されているが、当然キャバレークラブで散財し消費者金融でクビが回らなくなったオジサンだったらそ絶対に如何に彼等を救うか?が国会で真剣に議論になることなどないだろう。これは極端な事例であるが、常に自己責任論を課せられるのが男性という性別である構造を表してる。

男性は常に自己責任を説かれる…の最も分かりやすい例こそ、上記の男性問題で必ずと言っていいほど語られる「弱者男性は声をあげられず弱音を吐けず男らしさの自縄自縛になっている」だ。イジメを例に考えてみよう。イジメられっ子の中には如何に苛烈に扱われても「自分は虐められてない」という認知で、自身の折れそうな心を支えている例が珍しくない。また虐められている事を認め周囲に話した結果、そういう可哀そうな存在として扱われる惨めさを怖がってるケースもある。そういう人間に対して「自分は弱いいじめられっ子ですと認めろ!変なプライドを捨てよ!そんなものに拘るから貴方は虐められるんだ!」と説いて、いじめられっ子は救われると思うだろうか?自分が虐められてる事を認め周囲に話すと思うだろうか?それをしていじめられっ子の中の尊厳は守られると思うだろうか?答えは勿論No!である。

結局のところ、この手の言説は「貴方が声を出せないのは貴方自身に原因がある」と弱音を吐く事にすら自己責任論を課せる営為に過ぎない。いじめられっ子を本気で救いたいなら「虐めを相談しやすい環境を作ろう」「彼等の声に耳を傾けよう」「こちらからも声をかけよう」「彼等をよく見て兆候に気付こう」と周囲が働きかけるはずであるし、実際にイジメや自殺問題はそのアプローチをやってるし成果もあげている。1方で弱者男性問題は「弱者男性は声をあげられず弱音を吐けず男らしさの自縄自縛になっている」だ。

そしてこの前提がある為、男性が弱音を吐くには必然的に3跪9叩頭する必要に迫られる。つまり男性である辛さを訴える時は「女性に1切の責任はなく社会が男尊女卑であり女性より男性が辛いなんて事は断じてございませんが、私は男らしさの呪縛に苦しみ自身の情けないプライドにより声をあげられず苦しんでいるのです」と地に頭をこすりつけることを半強制されるのだ。実際に例えば男性学者や社会学者は常に女性に対して同様の3跪9叩頭をやっている。その3跪9叩頭を怠った男性に対して女性は如何なる態度をとるか?






このような事例はXをしていれば頻繁に観測出来るだろう。男性は3跪9叩頭し全て自分が悪い事にしないと弱音を吐く事が許されないのである。そしてそんなんで当然救われることや事態が好転することなどありえない。要は男性が弱音を吐けない理由は、周囲が弱音を聞く気もないし下手に弱音を吐いたらフルボッコにされるからに他ならない。繰り返すが弱者男性はこうした構造そのものの問題である。

何かにつけてシュバる女性

そしてこのような話題になった時に必ず出てくるのが

「弱者女性は弱者男性なんかよりもっと悲惨なんだぞ」シュババババ(走り寄ってくる音)

だ。例えば男性の非モテ問題を語れば「非モテ女性の方が悲惨だから」みたいな女性が騎士を引き連れ1ダース単位でやってくる。そしてマッチングアプリ等で示唆された客観的データを無視して、如何にモテない女性が悲惨か?を主観で語り続けて、男性の口を封じて弱者利権とでも言うべきものを固めだす。実際にこの手法で自殺もホームレス問題も、それが圧倒的に男性に偏ってるにも関わらず「少数の女性やそこまでいかない女性こそ支援の手を差し伸べるべき」となってしまった。

女性は弱者から言葉を奪う。これは比喩的な意味でも直接的な意味でもだ。例えば今は性加害に対して使われる「魂の殺人」というフレーズは子供に対する行き過ぎた躾を指す言葉であり、家事育児を1人で回す「ワンオペ」は牛丼チェーン店を1人で長時間回すワープア問題であり、萌え絵を描くことに使われる「性的搾取」という言葉は後進国における人身売買問題を指していたものだ。

また女性が「男性のDVシェルターって少なくね?」と疑問を呟いた「NPO法人虐待どっとネット」の代表理事である中村舞斗氏を「性差別主義者」として燃やした事件や、過去にも男性DV被害者を不可視化してきた事は下記のnoteで述べた。

が同様のことは普通にまだまだある。例えば男性差別問題を描いた映画「THE RED PILL」をオーストラリアで上映しようとしたところフェミニストから妨害工作され上映中止に追い込まれた。またインドではレイプに関する法律の中に男性被害者も含んで欲しいという要望がフェミニストにより却下された。日本でも

上記を見れば弱者男性問題で言われる「弱者男性の生き辛さは男性が作り出している」「弱者男性は声をあげない」というのが大嘘だと分かるだろう。実際は弱者男性が声をあげると、それは「女性の方が辛いのに!貴方は性差別主義者だ!」とその弱者性は女性に簒奪され、時には公的福祉すらも奪われるのが実態である。

何故こうなるか?というと、1つは先進国において弱者・被害者というのは奇妙な事にある種の特権…配慮や支援を真っ先に受けられる階級…と化しており、それ故に弱者と認められるには周囲にそう認められるだけの権力が必要になってることだ。そしてその権力者が女性である事は言う間でもない。元総理の森喜朗氏という強者男性すら「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」といっただけで公的立場を追われ、ハーバード大学の学長も「男女の脳に性差はあるんじゃね?」と言ったら2ヶ月でクビになる。発言自体の真偽は別として、女性に対して男性が不快な事を言えばクビが飛ぶ社会において男性を権力者と見做す事は難しいだろう。

もっとハッキリ言えば、弱者男性問題は正に「女性ばかりが弱者として如何なる時も優先的に配慮や支援を受ける」構造への問題提起そのものだ。

弱者男性論から男性弱者論へ

とここまで読んで、こう思った方も多いだろう。「つまり男性の中に弱者がいるのではなく先進国において男性という存在そのものが弱者なのでは?」と。正直私も同感だ。大企業の社長、才気溢れるクリエイター、超イケメン芸能人、政治家…そういった強者男性さえ女性には逆らえず、失言1つで社会的に死ぬのが今の日本だ。

弱者男性は現在はもっぱら「非モテ」を指す侮蔑語として使われている。弱者男性論が元々問題視していた不可視化される男性困窮者…ホームレス、貧困、精神疾患、DV被害者、過労死…そういった男性の困窮をいくら訴えても「どうせモテないだけでしょw」で塗り潰されるのが全てを象徴している。というより男性困窮者を大っぴらに嘲笑することが許されていること自体が男性が弱者である証だろう。更に言えば「モテない=女性に選好されない」が困窮男性を無条件で切断処理する文言になってるのは、もう解釈の余地もなくそういう事としか言いようがない。結局は弱者男性を攻撃する男性すらも結局は女性を権威や価値観の最上位に置いて腰をヘコヘコ振る弱者でしかないのだ。

困窮している男性は決して救われる事も弱者と認められる事はない。何故ならそれは「女性は如何なる時でも弱者であり男性より優先的に配慮や支援すべきである」という権力構造への異議申し立てに他ならないからだ。要は弱者男性は存在自体が「女性は如何なる時でも弱者・被害者」という政治的に正しくないのである。今の社会は「男性は救わくてもいい。何故なら男性は強者であり彼等が困窮するとしてもそれは自業自得であり救済の必要はない」というルールで回っているのだ。

弱者男性が救われる時があるとすれば間違いなくそこには今と全く異なる社会秩序が広がっているはずだ。被差別者が差別者の機嫌や権力を損なわないように圧制を終わらせた例は人類史上皆無である。


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