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19歳、恐山での夏休み「田園に死す」

もう取り壊されちゃっているから、分からない方も多いと思うんですけれど、なんかたまにネット上で見かける「謎の看板」と言う括りの「人形屋佐吉」なんですけれど、私が高校生の頃は実際に骨董人形屋さんだったんですよ。
東京のモリハナエビルから出店のオファーが来て、そちらに移転しただけの話で、今でも東京で営業していらっしゃいます。

高校生の頃から(買わないくせに)人形屋佐吉に出入りしていた私は19歳の夏、佐吉さんと、お店番の純子さん、それから意外と子だくさんの佐吉さんちの上のお子さんふたりの総勢5名で恐山で1週間ほど夏休みを過ごしたんです。

佐吉さんは骨董人形の写真集を出版するための準備中だったので、恐山で市松人形の写真なんかを撮りまくり、食事はキャンプみたいに自炊で、お風呂は明かりのない温泉に混浴で、寝るときは宿坊で雑魚寝でした。

それから何年も経って寺山修司の「田園に死す」を見た時に、その恐山の風景を見て懐かしさに心がときめきました。
ただ寺山修司って覗きかなんかで逮捕か検挙されてませんか?
それから1960年代の料理雑誌に書かれたエッセイで「餃子と言う女」って言うのがあって、つまりは青森から東京に出て来たばかりの寺山修司が、友人とラーメン屋に初めて行った時に「餃子」と言うのはどんな女性だろう?って勘違いしてたってお話があったのを読んでいたので、文化人としては私の中では、わりとどうでもいい存在なんですよね。

映画自体のできも「あー、この人春川ますみみたいなタイプが好みなんだろうな?」って思ったくらいで、旅回りのサーカスの一座が出ているってことや、巨漢フェチなところはまさにフェリーニのいいとこ取りじゃないですか。

餅は餅屋、似たようなテイストの映画を撮った鈴木清純はプロの映画監督ですから、もし同じ題材で撮るとしたらもっと洗練された作品を撮ったと思うんですよね。

田園に死すは、私の個人的な思い出補正がかかっていて色んなことを思い出すだけで、映画自体の出来が特別素晴らしいとは思っていません。

ただ、ラストシーン。
これは川島雄三へのオマージュなのかな?ってちょっと思ったんです。
川島雄三は「幕末太陽傳」のラストシーンを主演のフランキー堺が品川の遊郭から、昭和32年の品川の街にワープさせてトンズラさせると言う構想を練っていたそうなんですけれど、日活の首脳陣はおろか、フランキー堺にまで反対されて断念したと聞きます。

それを寺山修司がやって見せたのかな、って思ったりして。
結局、結構俗物なんですよ、寺山修司って人は。



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