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最大限で応えたい

自分の大切だと思う友達、
わが子が大切だと思っているお友達。
(勿論、合う合わないはあるけれど)

そういう人のことは、
何があっても助けたいと思うし助ける。
お金はないけど、解決しようと思う心と
そういうときの行動力はあるとおもっている。

でも、自分の中で興味が無い、
自分の人生において欠けても大丈夫な人に対して
困ってる、助けて欲しい、と言われても
頑張れない。助けられない。
この"自分の人生において欠けても大丈夫な人"とは
私を陥れようとする人のことであり
道で転んでいる、知らない人は助けるし
困ってウロウロ歩いている人を交番まで連れていったことも何度もある。
転んでいる人のために救急車を呼んだこともある。
困っている人や子どもを見かけると、わたしまでドキドキしてしまう。

私は多分、見た目がよろしくない。
ブサイクとか、まぁそれはそうだが
そういう事ではなく、格好の話だ。
ダメージ強めなダボダボのジーンズに、
ドクロの描いてあるTシャツを着て、
濃い色のサングラスを掛けたりしている。
(いつでも、ではない。)
この例を出した理由は、この格好でヘッドホンを付けている私に
荷物をたくさん持ち、杖をついたご婦人が
「すみません、」と、私に"トントン"してきた。

もちろん視界に入っていたが、立ち止まっていたそのご婦人は困っているようには見えなかった。
「なんでしょう?」とヘッドホンを外しながら訊ねると

「ここがどこだか分からない。」
「この荷物を孫に届けなくちゃいけない。」

こんな服装の私に声を掛けてくれるとは。
決して人通りが少ない道ではなく、
わたし以外の歩行者は本当に十数人もいた。
その方曰く、15分くらいどうしたらいいか分からなかった、と。
色んなお話を聞き、交番や警察所の案も考えたが、
結局現金はお持ちだと伺ったため
タクシーを呼んで、運転手さんに事情と行先(聞いていたので)を伝え、お願いした。
ここまで、およそ45分。
名前も、住所も知らないご婦人は、お礼も言わないままタクシーで去って行った。
お礼を言う余裕すら、無かったわけだ。
私はすぐに
我が子の保育園に『お迎え遅れます』の電話を入れ
(もう遅れていたけれど)
最終お迎え時間にギリギリで間に合った。
わが子に謝った。うちの子ったら、
「そんなに汗かいてだいじょぶ??」
だなんて心配してくれて。泣けた。←
夜ご飯はお弁当にした。(余談)

長く話したが、私はこんな『みてくれ』なのに
よーく人に道を聞かれたり、
ヘルプ!と言われる。こんなんなのに。←
自律神経失調症の為、人一倍光が眩しく、
サングラスは手放せないため、
日常的にサングラスをかけている。それなのに。

子供の迷子は見つければ必ずその子が保護者か
お店の方に見つけてもらえるまで
遠くから目で追う。怪しくない程度に。
怪しまれて何か聞かれるなら、それはそれで構わない。
何も悪いことはしていないから。
そんなことより迷子ちゃんが無事か、連れ去られないか
それが不安になって、距離を取って追いかけてみる。
泣き始めたら近寄って一緒に保護者を探すか
サービスカウンター的な所へ連れて行く。

ここで話したかったことは
自分を後回しにしてしまうことは
本当にいいことなのか、ということ。

今回例にあげたことに対して考えると、
そのご婦人の問題を解決するために
保育園のお迎えに遅れ、わが子にも、保育園にも迷惑を掛けた。し、
走って帰らないといけないくらい自分の体力を削り倒し、
子どもたちの夜ご飯はお弁当になった。
(喜んでたけれども。)
私はぐったりして、お風呂に入って早々に寝た。

同じ市内に住んでいる友人に「保育園のお迎えお願いできない?」と電話を掛けたとき、
「時間がある時ならまだしも、時間が無いんだから
"ごめんなさい"って断れば
その人は別の人にまた声を掛けるだろう。
お前が助ける必要があったのか?」と、訊かれた。

必要があったのか、とか
別の人がやってくれただろう、とか
そういう思考が私には無いことがわかった。
『いい人』でいたいわけではない。
でも、その友人はいつも私に
「そんなにいい人って思われたい?」と言う。
もし、いい人だと思われたいのならば
そんな、もう一生会うことも無いであろうご婦人に"いい人"と思われる必要は無い。全く。絶対に。
身近な人で、大勢の人がいる前で"いい人アピール"をすればいいわけだ。
モテたい女性が、男性がいる食事会で”のみ”
サラダを取り分けるアレと同じように。(古いか。)

私は
"自分のことより人のことを優先しなさい"
"人に良いもの。自分は最後余ったものでいい"
"人を大切に。自分の身よりも人の身を案じなさい"
と、母から口酸っぱく言われながら育った。
だから、どんなに大好きな食べ物も
妹に譲ってきたし、どんなに欲しいものも
人に譲ってきた。優先すべきは周りの人だと言われてきたから。

今回例で挙げた一件でわが子を後回しのようにしてしまったことは、
大きな反省点である。
しかし、今回ご婦人が無事に目的地に着けたことは
私の中で大満足の結果であったし、
(確認できる方法があったので、)
タクシーで送ってもらう、という方法を思いついた自分グッジョブだった。
(お巡りさんを呼んでいたらもっと時間がかかっていただろうしね)
頼ってくれるなら、最大出力で助けてあげたい。
私なんかを頼ってくれるなら。
どんなにちいさなことでも。

見ず知らずのちいさな女の子に、急に
「てんち、ちゅくって?」と、折り紙を渡されたことがある。
小さな頃から折り紙が得意な私でも
『て、天使だと…?!』と、内心焦る事案ではあったが
「待っててね?」と急いでスマホで折り方を検索し
無事、"天使"を渡すことが出来た。
タイムリミットは、"ママが来るまで"。
なぜなら、もし私がその子のママなら
「すみません…!」と、その場から連れ戻るから。
私の”ちゅくった”天使を持ったその女の子天使は
ニコニコしながら走っていった。
喜んでもらえてよかった。と、児童館でほっこりさせてもらった。


多くの人は頼られることが嫌いでは無いらしい。
もちろん、私もそのひとりであって、何も特別な感情もない。ただ、
どうにかしてあげたい、
私にできる、最大限で応えたい
と、思う気持ちがもしかしたら人一倍強いのかもしれない。


もしかしたら。多分。


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