おあげ


赤いきつねと緑のたぬきだったら、俺は断然赤いきつね派だ。

カップうどん特有の安っぽい麺が好きだし、フワフワの黄色い卵の食感もたまらない。
なにより、スープの染みた「おあげ」が旨い。

そういえば、「おあげ」ってなんだ?

俺は20余年の半生の中で、幾枚もの「おあげ」を食べてきた。
それなのに、「おあげ」の正体をいまだに知らない。

「おあげ」とは一体なんだろう。

まさか「おあげ」が木になっているわけではないだろうし、まして海を泳いでいるわけでもあるまい。
人工的に作られた食物であることは確かだ。

例えば、「おしり」の正体が「しり」であるという理屈にしたがえば、「おあげ」の正体は「あげ」であるはずだ。

あげ?

「あげ」は「揚げる」という動作を指しているというのは想像がつく。
しかし俺が知りたいのは、なにを揚げているのかであって、「揚げたもの」だということは既にビジュアルや舌触りからなんとなく察しがついている。

だいたい、揚げ物なんて他にも沢山あるではないか。
いってみれば、唐揚げもコロッケもエビフライも、すべて「おあげ」である。
それなのに、なぜヤツだけが「おあげ」を名乗っているのか。
揚げ物界の王にでもなった気でいるのだろうか。図々しい。

そもそも、なぜうどんに「おあげ」が入ると「きつねうどん」と呼ばれるのだろう。
「おあげ」の正体のヒントはキツネにあるのかもしれない。

そうか、わかったぞ。
「おあげ」の色はキツネ色だから「きつね」なのではないだろうか。

だからなんだ。
まったく「おあげ」の正体に近づいていない。
別のアプローチが必要だ。

いなり寿司にも「おあげ」が使われている。
酢飯を包んでいるアイツは、うどんに乗っているアイツと同一人物なはずだ。
ということはつまり、「おあげ」=「いなり」ということになる。

「いなり」ってなんだ?

伏見稲荷の「稲荷」とは何か関係があるのだろうか。
いや、伏見稲荷の「稲荷」が何なのかも分からないけれど。

「マグロ寿司」の正体は「マグロ」なのだから、
「いなり寿司」の正体は「いなり」であるはずで、

いなり?

まただ。

これでは堂々巡りだ。
いつだってヤツは、核心に迫ると煙のように姿を晦ます。
飄々としていて掴みどころがない。
てんで埒が明かない。
まるで狐につままれたような気分だ。

ん?狐につままれた?


きつ、、ね、、、?



その瞬間、目の前の景色がだんだん歪んでいくのを感じた。
まるで重力が消えたかのように、世界がぐちゃぐちゃになっていく。

同時に、俺の身体だけがみるみる重くなっていった。
身動きも取れない。
このまま無力に世界の底に沈んでいくように思えた。

ジーンという耳鳴りと共に、徐々に視界が白くぼやけ、世界が光で包まれた。
意識が遠のいていく。




「おあげ」というのは正体が謎に包まれている食べ物です。

長い歴史の中でたくさんの賢者たちが、「おあげ」の正体を探ろうと知恵を巡らせてきました。
しかしどうしたことか、今まで「おあげ」の正体に辿りついた者は誰一人としていないのです。
その上、彼らは皆、口を揃えて言います。

「まるで狐につままれたみたいだ。」

そうです、「おあげ」というのは知的好奇心をエサに人間をおびき寄せ、正体を探ろうとする者を「おあげ迷宮」に拐かす、不思議な妖力を秘めた化け狐のような食物なのです。

だから昔の人は「おあげ」を、迷路のメタファーであるグルグルのうどんの中に閉じ込め、力を相殺させて食すことを考えました。
これが「きつねうどん」の始まりです。

したがって、きつねうどんの中から「おあげ」という概念をすくい上げて正体を探ろうものなら、瞬く間に「おあげ」の妖術にかかり、「おあげ迷宮」を彷徨うことになります。
そして、その間に吸い取られた生気が新たな「おあげ」を生成するエネルギーとして消費され、全国のスーパーマーケットに「赤いきつね」が陳列されるわけです。

「おあげ」はこうして古来から、人間を媒介して増殖を続けてきました。
今では、すっかり日本食の文化に根付いているほどに繁栄しています。
みなさんは「おあげ」を"食べている"とお考えでしょうが、それは間違いです。
むしろ、私たちは「おあげ」を"食べさせられている"のです。
人類は既に「おあげ」の掌中にあります。

ですから、もう「おあげ」の正体を探るのはやめましょう。
判らないことを、判らないままにしておくことも時には必要です。
これからは「おあげ」に囚われることなく、ご自身の人生を歩んでください。

「おあげ」の正体を見破ろうと意気込むあなたを、うどんの中からせせら笑って見ている者があることを、決して忘れてはならないのです。

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