救済系ラスボス論破案をひとつ思いついた
承前
さて、前回は「もうちょっとマシな論破はねえのかよ」と顰蹙を買いそうな問題提起だけして一切回答も何も示せなかったが、一週間考えてひとつ思いついたのでここに記す。
まず前提として、我々人類の「主観的幸福」の機序について論じておく。
昔読んだ『サピエンス全史』で「技術の発展は、我々人類を未曽有の繁栄へと導き、信じられないほど生活水準を向上させた。しかし、一方でそれは個々人の主観的幸福度を上げる役には一切立たなかった」とゆうようなことが述べられていた。
考えてみれば当たり前の話で、もしも生活水準と主観的幸福度が比例するというのなら、大昔の人々はとっくの昔に絶望して全員自殺していなければおかしい。我々の生存自体が、幸福度の向上に対してテクノロジーが何の寄与もできていないことを証明してしまっているのである。
なぜこんなことになったのか? これほど生活が安楽になっても我々がちっとも幸福になれないのは何故か?
「慣れ」と「飽き」があるためである。我々は、ある特定の幸福を、いつまでも同じように喜び続けるということが決してできない生き物だからである。
「以前と比べてどうであるか」。「他者と比べてどうであるか」。我々は、そのような「比較」の文脈でしか幸福を感じることができないのである。もちろん、なんか悟り? 的な? ものを啓いて、このさもしい状況から脱却できる可能性を俺は決して否定しないが、人類の99%には無理な相談である。
以上の点を、前提としてひとまず飲み込んでいただきたい。
さて、ここで救済系ラスボスのご登場である。
熱力学第二法則だかをすべて無視して全人類を救ってやろうと奴は言う。そこであなたが言うべきことは何か。
「やめてくれ。俺たちから幸福を奪わないでくれ」
だ。
人生が幸福のみで満たされれば、たとえ客観的にどれほど幸せになろうと、主観的には幸福が消え失せる。マイナスの状態からプラスへと転じる、その過程にしか幸福はないのだから。比較対象となる不幸がなければ、我々は幸福を認識できないのだから。
ただまぁ、これは即物的に人類から不幸を取り上げようとするタイプのラスボスに対してしか意味を成さない論破ではある。プッチ神父とかが相手だと通用しない。ゆえに万能の結論などとはとても言えない。
そもそもラスボスがそうゆう人類の認識システムすら変更できる力を持っていた場合、やはり無意味な反論であることは言うまでもない。状況と、ラスボスにどの程度のことができるのかを慎重に見極めて反論していこう!
ちなみに俺は救済系ラスボスが現れたら真っ先に尻尾を振って這いつくばり靴を舐めるタイプの人間です。救われるんなら誇りとかクソ喰らえですわ。
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