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ビーズ歴40年?【ビーズドール作家への道のり①】

noteを始めるにあたって、まずは自己紹介としてワタシが『ビーズドール作家』と名乗るまでの道のりについてお話ししたいと思います。長くなりますが、興味がありましたら読んでみてください。


出会いはお泊まり会

ワタシが子供の頃、毎年夏になるとと3人で母方の従姉妹の家に泊まりに行っていました。従姉妹は三姉妹。彼女たちの母である2番目の叔母(ワタシの母の2番目の妹)。そこに独身だったもう1人の叔母(ワタシの母のひとつ下の妹)も加わり、女ばかりの賑やかなお泊まり会でした。

そのときに必ずと言っていいほど行われるのが手芸(最近ではハンドメイドなんて言ったりしますが、ここでは当時っぽく手芸ということにします)。

毎年作るものが違っていて、ヤクルトの容器を芯にした犬のあみぐるみだったり、サントリーオールドの黒い瓶を使ったインディアン人形とか(←これ是非ググってみてください)、大高輝美さんのフェルト人形などいろいろ。

みんなが集まるや否や母と叔母たち、三姉妹の長女(ワタシより5歳年上)による手芸の会が始まるのです。その間手芸のできない小さい子供達はほぼ野放し状態でしたが、喧嘩しながらも仲良く遊んでいたのでした。

ワタシが小学生になったばかりの頃だったでしょうか、その夏もまた恒例のお泊まり会があり従姉妹の家に行ってみると、そこにあったのがビーズだったんです。

小さくてカラフルなビーズとワイヤー、動物や昆虫などが作れる説明書が入ったキットが用意されていました。

これ、ワタシもやってみたい!

と言ったかどうかは覚えてませんが、珍しく全員でちまちまとビーズをやることになったんです。ワタシも初めて手芸の会の輪に加わり、従姉妹に教えてもらいながらセミを黙々と作っていたのを覚えています。

※そのキットはまだ販売されているので、夏休みに親子で作ってみるのも良いですね。↓↓↓

家に帰ってからも姉と一緒にお小遣いを握りしめて手芸屋さんにキットを買いに行きいろいろ作ってはみたものの、お泊まり会のセミ以来、途中で投げ出してばかりでなかなか最後まで仕上げることができず、そのうちビーズへの関心もなくなってしまったわけです。とはいえワタシのビーズとの出会いは間違いなくこれが最初で、この経験が後にビーズドール作家としてのルーツになるとは当然知る由もなく。

やがてお泊まり会は数年後ワタシの母が病に伏し、そして亡くなったことで行われなくなりました。

子育て中の再開

短大を卒業して通信系の企業に就職。結婚・出産のために3年で退職(←ここはあまり詮索しないように!)。そして長男出産、3年後には長女が生まれました。子育てに奮闘しながらも時間を見つけては手縫いで子供の服を作ったり、マフラーやベストを編んだりしていました(母の死後は最小限のお裁縫スキルは家庭科の授業と祖母から学び、小学校の同級生のお母さんたちがボランティアで教える編み物教室で編み物を覚えたりして、ひと通りの手芸は経験していたのです)。ものづくりをしていると無心になれるので日々の慌ただしさを少しだけ忘れられるし、なにより楽しいんです。寝不足にはなりましたが…(^^;

息子が幼稚園に通い始めた頃、息抜きに読んでいた雑誌にビーズで作るアクセサリーの特集が掲載されていました。ちょうどビーズブームが到来したばかりの頃でした。ふとあのお泊まり会のことを思い出してまた作ってみたくなり、近所の手芸屋さんに行って材料を買ってきました。

雑誌に掲載されていたレシピを見ながら作ったケータイストラップがこれです。

初挑戦のテグス編みでしたが20数年前とは違いスイスイ作れて、次は指輪、その次はネックレス、といった感じでどんどん作りたい欲が増してきました。

ママ友の間でもビーズ旋風が巻き起こり、一緒に浅草橋へ材料を調達しに行ったり、作品をフリマに出品したり、オーダーを受けたりと、もうすっかり気分はビーズ職人でした。

生まれ育った東京下町を離れ、息子の小学校入学と娘の幼稚園入園を機に横浜へ引っ越し。新しくママ友を作るのに一役買ってくれたのもビーズでした。幼稚園のバザーのために発足した手作りの会でビーズアクセサリーの作り方を教えたことをキッカケに、自宅でも教室を開催するまでになりました。

しかし、娘が幼稚園を卒業してからはママ友たちとの関わりも薄れ、それと同時にワタシのビーズに対する方向性も少しずつ変わろうとしていました。

つづく↓↓↓


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