ミミズクの沈黙、てのひらの目
アルジェリアの言い伝えでは、「眠っている女性のてのひらにワシミミズクの右目があったとき、その女性は知りたいことをなんでも知ることができる」という。
フクロウの仲間であるミミズクは、古くから世界各地で知恵や神秘の象徴として扱われてきた。そのミミズクが人にみずからの右目をあたえ、未知なるものを見通す力や予言能力を授けるというのだ。
とはいえ、てのひらにワシミミズクの右目、という状態がどんなものなのか、容易には想像しにくい。実際の目がそこにあるのか、ある種の痣のようなものなのか、それともタトゥーなどをさしているのか。いずれにせよ、神秘的な力が人の手に宿り、超越的な能力を発揮するということであろう。
科学の発展は、これらの言い伝えをたんなる神話や迷信として、世のなかの表舞台から引きずり降ろしたところがある。しかし、伝承のなかには往々にして、僕たちが忘れかけている自然への畏敬の念が宿っている。
なかでもミミズクやフルロウの仲間は、古くから神聖な生き物としてあがめられ、超自然の力を備えていると考えられてきた。その背景には、これらの猛禽がもつ生物的能力がきわめて優れていることがあるだろう。
暗闇のなかであたりをはっきり見通す視力や、静かに飛び立つ飛翔力、獲物を捕獲する強力な攻撃力。彼らは100メートル先にいる小さなネズミの動きさえも的確にとらえ、音もなく静かに羽ばたき、鋭い爪で捕獲するのだ。パラボラアンテナに似た顔盤は集音機能をはたし、左右で位置の異なる耳孔は音源の位置を立体的にとらえる。だからこそ彼らは暗闇のハンターになることができる。
こうした能力の高さから、フクロウやミミズクはアルジェリア文化においても重要な位置を占めてきた。地域によっては神聖視され、知恵と神秘の象徴とされたりもする。
そのいっぽうで、夜行性の猛禽として、死や禍の暗示とみなされてきた面もある。たしかにその鳴き声もすこし変わっていて、不気味といえば不気味でもある。
木彫りの土産物ととイオマンテ
アフリカ最大の国アルジェリアはその国土の約8割をサハラ砂漠が占め、森林の占める割合は少ない。ワシミミズクはその森を棲みかとしている。アルジェリアの都市部と砂漠の入り口あたりにはいったことがあるが、森は知らない。そこでは緑豊かな自然のなかで、驚くほどの生物多様性がはぐくまれでいると聞いている。そのなかにあって、ミミズクやフクロウは食物連鎖の上位に位置している。
なにしろ日本の6倍半くらいの国土をもつ広い国だけに、文化や風習も地方によって違いは大きく、ある地方ではその鳴き声を占いに利用するという。
たとえば家の近くでワシミミズクが鳴いていれば、その鳴き方や状況によって幸運の兆しであったり、逆によくない暗示として解釈することもあるようだ。頭上を飛んでいた場合は、重要なメッセージを伝えていると読むことができるという。それを解説する本もあれば、ミミズクの行動からなんらかの兆候を読み解く占い師もいると聞く。
ある種の託宣を解釈しているわけで、タロットのような卜術に近いのかもしれない。
フランス語でミミズクは hibou(イブー)、フクロウは chouette(シュエット)だが、英語にすればミミズクは horned owl、つまり角をもったフクロウである。その名の通り、両者の見分け方は、頭にウサギの耳のような飾り羽(羽角)をもつのがミミズクで、丸い頭をしているのがフクロウだ。中国語でフクロウは「猫頭鷹」と表記する。文字通りネコの顔をもったタカで、ミミズクは「長耳猫頭鷹」となる。たしかに猫の顔に似ているが、日本ではフクロウのことを人間の顔をした鳥と呼んでいた時代もあるそうだ。
僕の母はかつて、小さな木彫りの人形を数多く集めていた。人差し指にも満たないほどの大きさのコケシや動物たちが家の棚にならんでいたのを覚えている。僕がその小さなものたちを意識したのは6、7歳のころだったと思うが、すでに母は収集などしている形跡はなかった。若いころ、おそらく結婚以前に集めていたのだろう。
そのなかに木彫りのミミズク像があった。小さなものだったが、存在感があったので、僕がこどものころになにか尋ねたのだろう。母によれば、それは自分で買ったものではなく、北海道にいった知りあいからの土産物ということだった。
フクロウやミミズクは吉凶ともに語られる生き物で、東北地方の一部ではフクロウは死を呼ぶ不吉な存在とされていた。
いっぽう、近畿地方では、フクロウを知恵の象徴と考えてきたという。夜目がきくことから、見通しがきくという解釈が生まれたようだ。ある種の類感呪術といえる。さらに、学問の神様である菅原道真がフクロウを好んだという言い伝えとも関連しているのかもしれない。関東地方では、フクロウに福来郎や不苦労の字をあて、招福や家内安全のお守りとしてきた。そうしたなか、やはり特筆すべきはアイヌの人たちにとってのフクロウだろう。
古くから北海道に暮らしてきたアイヌの人たちは、フクロウをカムイ(神)として崇拝してきた。彼らのもつ自然への畏敬は、いつもながらハッとさせられるものがある。
その崇拝の仕方は、いわゆる神の国へ魂を送るイオマンテ(霊送り)の儀式としてあらわれている。イオマンテとは、イ(i=それを)とオマンテ(omante=返す)からなる言葉で、クマにたいしてそれをすることは比較的よく知られている。しかし、それよりも古くからフクロウのイオマンテがおこなわれてきたと聞く。にもかかわらず、1920年代ころまでに、ほとんどの地域でその儀式は失われてしまった。
アイヌ文化は文字のない世界だけに、いまとなっては当時のことを研究者たちが書き記したものだけが頼りとなる。
それらによれば、フクロウのイオマンテは、まず幼鳥を捕まえることからはじまる。捕獲した雛を、集落につれ帰って育てていくと、やがて羽が生えそろい、飛ぶことを覚え、木の枝にもとまれるようになる。じゅうぶんな餌があたえられ、フクロウはどんどん成長し、やがて霊送りの日が決められる。親類縁者や知人友人たちが集まり、儀式やそれにともなう宴の準備にとりかかる。
宴はカムイ(神)をもてなし、たくさんの土産をもたせてその魂を送るためのものだ。なぜなら、歓待を受けたカムイは、天上界にもどってその話をする。それを聞いたほかの神々は、さまざまな動物の姿をかりて、つぎつぎと人間界を訪れてくる。アイヌの人たちは、古くからそう考えてきた。つまり、イオマンテは霊送りと同時に、カムイの再訪を祈願し、豊かな自然の恵みに期待をかけている。
キムンカムイ(山の神)ならクマにハヨクペして、すなわち扮装をしてやってくる。レプンカムイ(沖の神)ならシャチやイルカ、コタンコロカムイ(集落の守り神)ならシマフクロウの姿となってあらわれる。
母がもっていた小さな木彫りのフクロウも、こうした文化のなかにあるものだったのだろう。
亡くなった人を感じるということ
母は健康な人だったが、50代にはいって病気を患い、4年ほどの闘病生活をへて亡くなった。
その日、報せを聞いて帰郷すると、すでに母のからだは病院から家にもどされ、床の間に寝かされていた。すこし口を開いていて、あぁ死んでしまったのか、とその顔を見て思ったが、実感はなかった。まだそこに母がいるような感じがした。
その夜は、家族がかわるがわる母の枕もとについた。夜も更けて日付も変わったころだったろうか。僕が母の枕もとに座っていると、ふいに天井の隅に母がいるような気がした。奇妙な感覚だった。
首をそらしてそのあたりを見ても、なにかが見えるわけではない。しかし、そこにいるという実感は強い。そこから、こっちを見ているという気がする。しばらく天井の隅を見ていたが、やがて宙に吸いこまれるようにして気配が消えてしまった。
葬儀は禅宗のやり方でおこなわれた。只管打坐(しかんたざ)、すなわちただ座禅をするという無欲で質実なイメージだけがあったが、それを覆すかのように葬儀はなかなか派手でにぎやかなものだった。家に3人の僧侶がやってきて、読経の途中で立ちあがり、払子(ほっす)という馬の尾をつけた仏具をふりながら、祭壇の前を右に左に歩きまわったりし、ときには鳴り物もあったような気がする。
その後、四十九日の忌明けまでは毎週、僧侶がひとり家にきて読経し弔いがなされた。儀式は若い者にとっては面倒な時間でもあるが、こうして魂を送るのかと感慨深い思いもあった。
昨夜、家の浴槽で湯につかっていた。ふと左手を開いてじっと眺めてみた。すると、てのひらの中心に目のようなものが見える。僕の手には手相でいう神秘十字線という印があるだが、その十字の線のまじわりの斜め下に、たしかに目が見える。錯覚だとしても、見えてしまう。直径1センチ弱ほどの円に近い目だ。
僕は眠っているわけではなく、もちろん女性でもないが、てのひらに目があると思って浴槽でひとり苦笑いをしていた。ただし見えているのは右目ではなく、左目なのだ。
風呂からあがって深夜、ひとり部屋にいると、空いている椅子に母がいるような気がした。亡くなった母をこれほど身近に感じたことはなかった。天井に消えていった日以来のことだ。僕は霊視をするタイプではないが、感じてしまうものはしかたない。僕にはなにか知るべきことがあるのだろうか。奇妙な一夜である。