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見えないものを見る、についての体験と考察

3つの分類+αの占術

占いは、その手法によって、大きく3つに分類できる。絶対的分類というより、ひとつの考え方ととらえたほうがいいだろう。とにかくそれによると、命術と卜術と相術の3つがあるとされる。それぞれどのような特徴があるのか、ざっと見ておこう。

まず命術ついて。これはその人が誕生した生年月日・時間・場所など、不変的な情報をつかって占いをする。占星術、四柱推命、数秘術などがここに含まれ、その人の性質や才能、相性、結婚などの時期を見るのに適してる。

つぎに卜術。これは、タロット・易・サイコロなど、偶然の要素によって占う(これは以前の記事で書いた)。その背景には「すべての事象は必然である」という思想がある(前回の投稿で書いたシンクロニシティです)。この占術は運命や宿命より、日々移り変わる人の気持ちや近い未来のことを見るのに適している。

最後に相術について。相という字があらわすように、もののかたちが人にあたえる影響を読みとくのがこの占い。手相や顔相、風水などがそうで、姓名判断もここに分類される。風水は地形や空間の相であり、姓名判断は字がもつ相だ。宿命や運命などを占うとともに、化粧や服装、あるいは部屋の模様替えなどによって、運気をよい方向へむけるという作用もある。

どの占いが優れているか、という話ではなく、相互補完できればいいというのが僕の考え方である。僕にとって占いは絶対性のある存在ではない。したがって宗教でもなければ信仰の対象でもないので、信じるとか信じないという価値観では測れない。

ところが、占いの面白いところは、そこに神秘的なものがあるという感覚だ。いいかえれば、人間を超えた存在からのメッセージ、それにふれてみたいという欲求が占いの魅力である。それもよくわかる。いまの科学や合理性があると考えているもののなかに、すべての真実があるわけではない。だからこそ、不条理なこの世界にあって、なにか別のものにこたえを求めたくもなる。

その欲求を如実にあらわしているのが、いまの占いの潮流だろう。どういうことかというと、冒頭に示した3つの分類とはちょっと異なる占い分野があって、それが人気を集めているのだ。つまり、霊感占いと呼ばれる分野である。これは占い師の霊能力や直感によって、未来や過去、現在の状況などを透かし見ようとするのである。

厳密な分類としては、霊感は上記3つのいずれにも、あてはまらないとされる。いわゆる霊術として第4の分類とするという考え方だ。
いっぽうで、卜術の一種だとする考え方もある。卜術がカードや筮竹からのメッセージを、占い師の霊感によって解釈していくのと、同じ分野だというわけだ。卜術は偶然がもたらす現象にもとづいて、こたえを導きだそうとする。霊術も卜術も人知を超えた世界からのメッセージを、メディアとしての占術師がうけとり、それを解釈していくわけだ。

いずれにしても、その結果を科学によって証明することはできない。にもかかわらず、こうした占いが古くから人々に用いられ、日々の生活やときにはより大きな決定に影響をあたえてきた。これは興味深いことだ。
もちろん霊能者でなくても、直感はあるし、虫の知らせのようなものも感じる。見られているかも、という人の視線だって不思議と感知できるものだ。五感や思考を総合したものなのか、まったく別の感覚がそうさせるのかはよくわからない。

私鉄沿線のクリーニング屋でそれを見た

霊視というものを専門とする占い師がいる。
そうした能力をもつという人を訪ねたことがある。僕が占い師になるずっと前のことだ。「なんだか、すごい人がいるらしい」
と、そのころ同じ会社に勤めていた先輩がいった。
「そうですか」
「うん。いろいろ視えるらしい」
どうやらこの先輩は、その人を紹介されたらしい。商売で霊視をしている人ではなく、視てほしい人がいたら、視てくれるということだった。半信半疑というより、あまり興味をもてなかなったが、熱心に誘うので、仕事がおわったあとにでかけてみた。そこは私鉄沿線の古い駅前ビルにある個人経営のクリーニング店だった。

来意を告げると、50歳前後の女店主が店の奥に招きいれてくれた。吊りさげられた多くの洋服の裏側には、畳敷きの小さな部屋があった。女性の顔は覚えていないが、ごくごくふつうのおばさんという感じで、陰気ではないが派手さはなく、どちらかというと地味な印象が残っている。
会社の先輩はすでに面識があったようだ。僕はもちろん初対面である。
「あなたのような人が、よく来ましたねぇ」
と、その女性がいった。
僕はその意味をはかりかねた。あえて尋ねなかったが、霊視や占いなど信じていない人が、よくここにきましたねぇ、というニュアンスだったのかもしれない。とにかく一瞬にして、僕のなかのなにかを感知したということだろう。

そのとき僕は特別に占ってほしいことがあったわけではなかった。だから、わざわざ時間をさいてくれたこの女性に、申し訳ないという気持ちが起こってきた。しかし彼女は意に介するふうもない。すこしのあいだ雑談をしたあと、
「じゃあ、ちょっと目をつぶってくれますか。それからゆっくり大きく呼吸してくださいね」
と、彼女は僕たちふたりに声をかけた。僕たちはその指示にしたがった。
「なにか見えてきたら、話してみてくださいね」
しばらくすると、まるで夢でも見ているように、頭のなかに映像イメージが浮かんできた。

まず砂漠の白い砂のなかに自分自身がいるイメージだ。しばらくするとフワッとからだが浮かびあがる。青い空に舞いあがり、鳥のように滑空しながら上から砂漠を眺め、やがてそれは海へとつながってゆく。ここまでのイメージは主観的映像で、自分の姿はわからない。もしかすると実際に鳥だったのかもしれない。

つぎに場面が変わって、ここからは主観と客観の映像がいりまじる。映画のようなものだ。新しいイメージは、帆船に乗って海をわたっている自分自身がいる。自分だとわかるが、日本人ではなくヨーロッパ人らしい。船員ではなく客のようで、年は20代くらい。場所は地中海だということもわかる。
僕自身はのちにサハラ砂漠にいったこともあるし、船で地中海をわたったこともあるが、そのときはまだ海外にいったことすらなかった。

さらに場面が変わって、ロンドンの街角で、古い建物の角を曲がるところからはじまる。やはり自分自身はヨーロッパ系の人間で、時代は20世紀のはじめくらいだということもわかる。ただし実証的なものではなく感覚的なものだ。
角を曲がるとすこし歩いて、僕あるいは登場人物は石造りの古い建物にはいっていく。入り口は木製の回転扉だった。どうやら求職中であるらしく、ちょっと雑然とした事務所にはいっていくと、ある部屋にとおされる。そこは新聞社だった。窓を背にしてデスクのまえに年輩の男が座っている。男がなにかしゃべっているのを、立ったままじっと聞いている。話の細かい内容はわからないが、自分はこの新聞社に雇ってもらえることになったようだ。

また場面が変わって、床の間のある座敷の映像になる。そこに口髭を生やした着流し姿の男が端然と座っている。男の髪はまだ黒く、30代くらいに見える。身なりは悪くなく、座敷も整然としている。どうやら自分自身らしい。広めの机があって、そのまわりをふたりの幼い女の子が走り回っている。座敷の横に縁側があって、そのむこうの庭が陽ざしを照り返して白っぽく光っていた。
その日はこの男の誕生日らしい。幼いこどもたちはなにか祝い事の雰囲気を感じとってはしゃいでいるようだが、男はどこか晴れないない顔をしている。

つぎのシーンは短い。やはり明治のころで、場所は東京であるらしい。幅2メートルほどの川があって、片側は柳の木のある道、もう片方は黒い板塀だ。川は深くはないが、雨のあとなのか流れが速い。そこを仰向けになった人が流れていく。赤い肌襦袢の上に薄い着物、浴衣かもしれない。その人が娼婦であることがわかる。

最後は、氷に閉ざされたような冷え冷えと切り立った山があって、木は一本もない。細い道が険しい山肌に連なっている。そこを多くの人々がぞろぞろと歩いている。みんな身なりは貧しく、疲れているようだ。まるで巡礼のようにも見えるし、国を追われた人々のようにも見える。自分自身もそのなかにいるのがわかった。しかし、どこにいるのかは定かではない。
やがてカメラがパーンするように、視線が動いていく。山のむこうには、青々とした冷たいい海が見えた。どうやらそこにむかってるようだが、この世の景色ではないらしい。

僕が見たのは夢の作用なのか

ここまできて霊能者の女性の声がした。
「このへんにしておきましょう」
一連の映像イメージを、僕は見えるままに語っていた。この間、30分ほどの時間がすぎている。もちろん語っている自分のことは認識していた。夢を見ているのに近いが、映像はかなり鮮明で、ディテールもはっきりしている。ただし、登場人物たちが話している声はよく聞こえない。それでも不思議と大まかな内容はわかったし、気持ちも感知できた。

いったい、これがなんだったのか。僕はいまだによくわかっていない。霊能力のようなものによって僕になにかを見せたのか、あるいはある種の催眠術だったのか。霊能者の女性になにか聞いたような気もするが、そこは忘れてしまった。

話はこれでおしまいである。
自分でも理解していないことを、勝手に推測して解釈するのも変なので、わからないことはわからないままおいてある。
「なかなか、そんなに見える人はいないのよ」
といわれたが、見えたところでそれをなにかに活かせているわけでもない。いっしょにクリーニング店にいった会社の先輩ももちろん同席して、同じように目を閉じていたが、結局なにも見えなかったという。

しかし、僕には見えた。それは事実だ。
事実だけを追えば、映像があるということは、脳内の視覚野が活動している。仮にそのときの脳活動をfMRIで測定していれば、確実にその部位の血流が高まっていたはずだ。夢の定義は難しいが、これもある種の夢だと考えることはできる。最新の脳科学では、夢は過去の記憶の断片がランダムに結びつけられ、再構成されたものだと考えられている。
ここでポイントとなるのは「過去」だ。それは僕が過去にメディアなどで見た映像を組みあわせたものなのか、それとも過去世のようなものがあってそれがどこかに記憶されているのか、僕にはわからない。

感覚的にいえば、人のからだはひとつのメディアのようなもので、そこをさまざまな情報や知識や経験や感情などがとおりすぎていく。一部は蓄積され、多くは排出される。そう考えると、霊能者の人たちはその受容感度が鋭く、かつ再生精度が高いのだろう。とはいえ、この第4分類について語るのは、なかなか困難ではある。

Épilogue / 10代から20代前半には、見えないはずのものが見えた、とか、感じたというのはあります。でも年齢とともに急速に薄れていきました。私もそうだとか、いやぜんぜん、という人もいるでしょう。僕もそういう世界を信じているわけではなく、かといって否定もしてもいません。新大陸を発見する前の中世の西欧人が、海の果てを考えるようなものですね。よくわからないわけです。でも、なにか簡単なヒントがあるなら教えてほしいとは思っています。僕もふつうに合理的な社会に生き、科学の恩恵にあずかっていますが、わからないことはいっぱいあります。

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