囚われ

自由に生きてみたいと思ったことは、きっと数え切れないほど人生であったと思う。そう思う時の自由って、どんな状態のことを言うんだろうか。

誰の指図も受けず、誰のためにでもなく、したい時にしたいことをしたいだけやれること?

だが、誰かの指図を受けるという選択も、誰かのために生きるという選択も、したい時にしたいことをしたいだけやらないという選択が出来るということまで含めて自由なのだと、私は思う。

つまり、自由というのは無限の選択肢を持てるということだと言いたいわけだ。

ある時に自分で考えた無限の選択肢の中から、好きな行動を選んで実行し続けられる、これはとても当たり前のようで実はほとんどの場合誰にも与えられていない。

私たちは基本、囚われの身である。法に、倫理に、道徳に、ルールに、マナーに、空気に、流行りに、時間に、場所に、他人に、自分に、世界に、私たちは生まれた時から既に縛られ続けている。

完全な自由なんてものは、この世に生まれてしまった時点で絶対にありえない。

故に、世間一般で言うところの自由というのは、その縛りの中でどれだけ自由であるかのように振る舞えるかという事なのだろう。

縛りを不要だとは思わない。人が人らしく生きるために、安全であるために、円滑であるために、無くてはならないとすら思っている。

自由を望む私だけれど、明日急に人を殺してしまったとして、なんのお咎めもない世界なんて寧ろ不気味で気色悪い。

自由に人を殺せる世界とは、いつ誰からも殺される世界であるのと同義だ。その世界では人を殺す自由は与えられても、毎日を怯えずに生きる自由は奪われる。

全員が全員私と同じ考えだとは思わないが、少なくとも私は人を殺す自由よりも、怯えずに済む自由の方が有難い。

まあともかく、私たちは自由にすら囚われている。

自由を与えられると、別の不自由が生まれる。別の不自由は新しい自由と不自由を、そんな事が永遠に続いていくのが世の常だ。

この世に生まれたことでさえ、自分の意思では無いのだから、私たちはいつになれば自由になれるんだろうか。

きっとなれないんだろう、自由なんて無いんだろう。そんなことは分かっている、皆知っている。

それでも思ってしまう、自由になりたいと、ぽつり呟く日がある。

矛盾しているだろうか、論理的とは言えないかもしれない。それでもこの気持ちを持たない訳にはいかない。

そんな気持ちにすら、私は囚われている。

今日も、檻の外を眺める。

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