肩車をしよう

仕事から帰ってきた、さっさと汗を流したいと思って玄関で服を脱ぐ。
タイマーで既に湯は張ってあるので一気に肩まで浸かると、
バシャアっとお湯が流れていく音だけが浴室に響く。
脚を伸ばす。脚が、伸ばせる。
「広いな」自分の家の風呂にそんな感想持ったことなんて無かったのに、自然と口から溢れ出る。
自分1人で入る風呂は、何もかもがスムーズで、誰かの髪を洗ってやる必要も、湯上りに拭いてやる必要もない。
その後、ゆっくりと飯を準備して食べ始める。1人で食べる時に言ったことなんてなかったのに「いただきます」と声を出して、手を合わせて。
たまにはと自分で作ったハンバーグは前ほど美味しくなかった。

寝室に向かう、そこに新しく本棚を買った。
最近外出する度に、絵本を1冊買って帰るから。
ある日帰った時、誰かが読んでいるかもしれないと期待して。
風呂も、リビングも、ベッドも、
帰り道も、店も、公園も、全てがやけに広く思える。
以前感じていた心地の良い圧迫感はどこに行ったのだろう。
瞬きも、呼吸も、心臓の鼓動すらハッキリと聞こえる程の静寂を割いて、女の嗚咽が響く。
違う、違う、これは違う、私は強く、私は自由で、私は、
1人ベッドで泣くような人間なんかじゃない。
我慢が出来ないせいだ、この壊れた脳みそのせいだ、悲しくなど、寂しくなど、決して無い。

抱き上げた温もりと重さを両腕が覚えている。

舌っ足らずに私を呼ぶ声がいつまでも鼓膜に張り付いている。

お日様みたいなふわふわする香りが鼻を支配している。

ふざけて食んだ髪の優しい味が今でも舌で感じられる。

無表情な君が、私たちのために笑ってくれた姿が目に焼き付いている。

五感の全てが君とのもう一度を焦がれてる。

誰も起こしに来ない朝が来る。
「おはよう」と言えない今日が来る。
君への気持ちを我慢できない不良品の脳みそを抱えて日々を生きる。
私は強い、私は自由で、
私は、寂しくなどない。
君は「またね」と言ったのだ。
それが例え嘘だとしても、子供の嘘を信じてやるのが親だから。
スマホの待ち受けにキスをして家を出る。
残酷な「広さ」に押し潰されそうになりながら。

私は「また」を待っている。

探索者:祇園 珊瑚 ショート

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