性善説

日記を書くのを辞めて、というか数日忘れていて、気づいた頃にはもういいかなと思った結果書かなくなってからしばらく経った。

よく続いた方だと思う、150日近くも駄文を書き綴っていた自分に拍手を。最初の3日ぐらいの熱意は最早最後らへんでは感じられず、「何も無かった」ことを毎日書いていただけだった。

不思議の国のアリスをご存知だろうか。有名な童話で、ディズニーの映像作品もある。アリスという少女がひょんな事からおかしな世界に迷い込んでしまうお話である。

その国の住人はみんな個性的で、そこに出てくる帽子屋とウサギがティーパーティーを開いている場面があるのだが、それは「何でもない日」を祝うパーティなのだ。

何も無いのに祝う、何も無いから祝う、どう捉えるかで彼らに対する評価は正反対になる。

特別な日でもないのに昼間からパーティなんてしているダメで変なやつらと見るか、

特別な事などなくてもその日に生きていることを、「何事もない」ことを喜べる者たちだと見るか。

世の中様々なイベントがある、特にお祝いと言えば誕生日やクリスマス、元旦や入学卒業、結婚など、その理由も祝い方も多種多様だ。

でも、これらのイベントがあるせいで「何も無い日」を有難がるという事を、普通に生きていると経験しないことが殆どだと思う。

少なくとも僕は、ただ今日に生きていられることに心から感謝出来るほど、よく出来た人間ではない。

性善説と性悪説というものがある。それぞれ人は生まれながらにして善とするもの、人は生まれながらにして悪であるとするもので、これらは良く正反対の意見としてぶつけられるが、実の所は人間がそもそも善か悪かなんてのは重要では無いのだ。

これら2つとも、人間が最終的に善であるかは結局、どう生きるかによるという話をしていて、最初から善であるか悪であるかは大した問題じゃない。

僕らが生まれた瞬間には、何でもない日を心の底から祝えたかもしれないし、祝えなかったかもしれないが、これからの人生において「何でもない日を祝える人間になろうとする」ことはできるのだ。

まあ毎日誰かが生まれて、誰かが死んでいる世界において、真の意味で何でもない日なんてものは存在し得ないのかもしれないけれど、

それでも僕らは、何はなくとも、たとえ何かがあったとしても、その日を受け止めなくちゃならない。

何でもない今日を、お茶とケーキで「楽しい今日」に変えるため。

何かあった今日を、友達と騒いだ「愉快な思い出」として記憶するため。

とはいえ原作のお茶会は永遠にお茶会をし続けねばならないという呪いのようなものなので、生きるということは往々にして呪いのようなものだとも言える。

それをどれだけマシに出来るか、命をかけた、文字通り人生の命題である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?