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最終回:音を相対化する、あらゆる音楽の意味をはぎ取って、新しい価値の海へ…… パンクからヒップホップへと導かれていった高木完の「勘どころ」とは?最終回:音を相対化する、あらゆる音楽の意味をはぎ取って、新しい価値の海へ…… パンクからヒップホップへと導かれていった高木完の「勘どころ」とは?

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ、堂々の最終回!


連載を続けてきたこのブログも今回が最終回。

企画の発端についてはこのブログの1回目でも書いているがあらためて。

10年以上前、編集者の川勝正幸さんが亡くなられたときのこと。お別れ会があってから数日考えていたのだが、あの頃自分はSNSで短いテキストは発信していても、いわゆる原稿というものをあまり書いていなかった。しかしなんとなくだけど、書いてみたいことはあった。自分なりの日本におけるロックやポップ・ミュージックについての原稿だ。それらが海外から最初に輸入された時はどうだったのか、最初に聴いた時はどうだったのかを、当事者の人たちに自分の視点からインタビューして、まとめて書いてみたい、という思いだった。

川勝さんがいなくなって、何かに後押しされるように、そう思った。

僕はその件について、川勝さんのことをよく知る編集者であり、自分も80年代からよく知る渡辺佑さんに相談を持ちかけてみた。

佑さんに紹介していただいた媒体が、BEAMSが出す『インザシティ』で、その雑誌を編集されていたのが川崎大助さん。その川崎さんの手を通して、連載は『インザシティ』にて9回掲載され、その後このブログで、2年間で計25回にわたって書かせてもらった。実は『インザシティ』とこのブログの間に、友人のデッツ松田が発行していた『アウトスタンディング』というアウトドア向けファッション誌でも2回ほど変則的に書いているのと、前回の『インザシティ』の連載が途中で終わってしまったため、当時誌面に反映されることのなかった方のお話もある。その辺を含め、加筆もしての書籍化の話も進んでいるのだが、とりあえずこちらでは最終回となる。

連載ではいろんな人にお話を伺った。

片岡義男さんにお話を伺った際、片岡さんはデビュー前のドアーズをアメリカで見たと言う。

その時の感想。
「歌謡曲みたいだった」

かまやつひろしさんはエルヴィス・プレスリーが嫌いだったとおっしゃっていた。そんなかまやつさんが驚いたのがビートルズ。

「今まで聞いたことのない、紗がかかったような音でしたから」

藤原ヒロシは、シュガーヒル・ギャングのアルバムが日本盤で出た時に、伊勢のレコード店で買っている。

元ネタであるシックが好きだった姉を驚かすためだったという。

後追いを抜きにしての自分の節目としては、グラム以降のロックンロール・リバイバルとパンク、ニューウェーブ、ヒップホップ、この三つがデカかった。特にヒップホップは、サンプリングという手法がクリエイターとしての自分の重要な要素となり、そこからそれまで触れてこなかったジャズやフュージョン、現代音楽、電子音楽にまで嗜好が広がった。

その嗜好は時代にもリンクする。

アーチストがSNSで日常を発信することも普通となり、旧曲のみならず新曲もサブスクで聴けるようになった今、「ラジオのボリュームをいつあげたか」は「いつシャザムしたか」に変わった。今はセックス・ピストルズもレッド・ツェッペリンもクール&ザ・ギャングもマイルス・デイヴィスも同等に聴く。

そんな時、アフリカ・バンバータのことを再び思い出していた。

バンバータの往年のパーク・ジャム、『デス・ミックス』ではYMOがファンクのレコードに混じってかかっていた。クラフトワークとマカロニ・ウエスタンをマッシュアップして、公園に集まるB-BOYを熱狂させた。
 
ローリング・ストーンズのイントロだけ延々と繰り返しかけて、
「今かかってるのは、お前らが普段聞かないロックだぜ」とマイクで煽ったという話は、伝説だ。

公園にいなかった自分も影響を大いに受け、クリエイトするときの感覚とDJする際の指針となった。

しかし、、、

SNSはアーチストの過去の犯罪を糾弾する役割も果たし、ヒップホップ・シーンではアフリカ・バンバータが追放されることとなってしまった。バンバータはもうシーンに戻ることはないのだろう。残念なことだ。確かなことは、自分にとってバンバータのセンスこそがヒップホップにのめり込むきっかけだった。それは間違いない、ということだ。

先日、近田春夫さんと久々に話していて、ふと気づいた。

ロックからパンクに自分の嗜好が移っていた1978年に、歌謡曲のシングルも普通に買うようになったのは、近田さんが当時やられていたラジオの深夜放送で歌謡曲を相対化していたからだ、と。彼と話しながら気がついたのだ。

近田さんは今で言うところの早替え(はやがえ)、、、「こんなタルいもん聞いてらんないよ!」って言いながら、局にあったEPをマイクでツッコミ入れつつ次々にかけていくスタイルを、当時、深夜の放送局でやっていた。

ほぼ同時期に、海の向こうではバンバータはビレッジで買ったニューウェーブのレコードをアップタウンに持っていき、ファンクと混ぜてかけていた。

「相対化するってことは、意味をなくすってことなんだよね」
(近田春夫)

ヒップホップの始まりはDJクール・ハークが妹のために開いたパーティから、とされているが、自分にとってはヒップホップ音楽の始まりの部分において、バンバータが概念的に音を無意味化させた、ということが大きい。一方、自分にとって音を相対化して聴くようになった始まりは近田さんからだったんだな、と、あらためて気づいたというところでシメにしたい。

ありがとうございました。

今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。


2023年10月 近田春夫さんと逗子にて。
連載は終わりますが、これからもセッションは続きます。(撮影 by OMB)


高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。
90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。



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