見出し画像

第12回の10:リザード誕生。ジャン・ジャック・バーネルとの邂逅。そしてダブへ

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


コウが加入してから、程なくして紅蜥蜴はリザードと改名。

前にも書いたが、彼らはその直前の1977年11月、高輪プリンスホテルでのBIGIのファッションショーのパーティにて、パンク時代のプラスチックスと共演。この時のバンド名はデストロイヤーだった。

ちなみに、プラスチックスもこの後活動を一旦停止する。リーダーの立花ハジメが、渡米した際にデビュー前のDEVOを見て「ロンドン・パンクをなぞってる場合ではない」と確信。帰国後すぐにバンド形態をあらためて、リズムボックスを主体とした編成とする。蜥蜴にコウが参加するのは、同年77年の12月である。

時代の変わり目。

77年末にそんな変革が起きていたことを当時の自分は知る由もないが、ほぼ同時にセックス・ピストルズも終焉を迎えていたのだからシンクロニシティを感じる。

そんなパンクからニューウェーブになるシーンの中で覚えている場面はいくつもある。プラスチックスの中でハジメさんだけが、東京ロッカーズとその周辺を主軸に置いた1979年のDRIVE2000にほぼ毎日来ては色々なバンドを見ていた。ロフトの通路でハジメさんとモモヨさんが談笑していた情景は今も自分の中で鮮明だ。

時間を77年に戻す。当時の自分はセディショナリーズにやられていたので、日本でそれを着ている人を雑誌の写真で見たら、「誰それが着ていた」なんて風に超チェックしていた(プラスチックスを知ったのもそこから)。モモヨさんはデストロイの T シャツを着ていた姿を、何かで見かけたのを覚えている。

「パンクは、音楽経由はニューヨーク。ロンドンは原宿経由だよね。(デストロイの) TシャツはBIGIのパーティのために原宿の赤富士で買った。ワカさんはウルトラヴォックスのメンバーがファーストのジャケットで着ていたような、ビニールのレインコートを買ってた」

後年リザードは全員黒のツナギを衣装とするのだが、僕が観始めた78年ごろは全員思い思いのコスチュームで、それがまたバンドの音によく合っていたのを記憶している。

エイト・ビートの上にのったボコーダー、シンセ。

リザードはプログレッシブロックと違うアプローチで電子音を響かせていた。

「74年ぐらいにローランドのSH1000買ってた。ARPとMOOGの間みたいなやつ。あれは使いやすかったね。日本に来た時のブロンディも使っていたよ」

プログレと違う、ニューウェーブの素のようなロックがあることはモモヨさんから教えてもらった。79年。ナイロン100%に入り浸っていた自分はモモヨさんからジャーマン・ロックのクラウス・ディンガー、ラ・デュッセルドルフを教えてもらったのだ。

ラ・デュッセルドルフのアルバム『VIVA』はすぐに買った。

そしてその年、79年。

リザードのデビュー・アルバムをプロデュースしたジャン・ジャック・バーネルもジャーマン・ロックがお気に入りだったから、リザードに対する共鳴は当然であった。

「ジャン・ジャックは水上はる子さん経由で連絡があった」

正直言うと、自分はリザードもフリクションも、どちらも先に出たオムニバス盤で聴けるライブ・バージョンの方が好きだった。

「ジャンはレベルをいじるんだよ。エフェクトをかけるというより」

曲によってボーカルが演奏の後ろに位置しているように聞こえるのは、そういうことだったのか。

当時はライブで聴いていたダイナミックさが少なく感じたりもしたのだが、あらためて聴くと、そこかしこにレゲエ的なアプローチを感じるギターのカッティングが耳を引く。

「僕は日本の音楽を作ろうと思ってたわけ。だから西洋のロックに影響を与えたものを参考にしたかったんだ。ロックって元々西洋のものだけど、そうじゃないジャマイカとかがインパクトを与えたわけだ。そういうパワーはどこにあったのかっていうことにも、興味があった」

紅蜥蜴時代にも、すでにレゲエ・アプローチとして『ゴーゴータクシー』という曲を録音している。パンク・ロックの前に日本のロック・バンドがレゲエをリディムとして取り入れ演奏したものとしては早かった、のみならず、自然でカッコイイ。

そしてその流れが、この項のきっかけであった「日本でいち早く意識的にダブをバンドで取りいれたのはリザードである」という話につながる。

「レゲエから第三世界的なものに繋がっていったっていうのはあるよね」

リザードには、歌と同時に、その歌に即した活動が際立っていた時代がある。その時期にリリースされたのが『バビロンロッカー』と『サ・カ・ナ』だ。後者は数年前にKERAによってカバーされた。

「若いアーティストの心情次第ですが、ミュージシャン冥利につきる、そう感じています」

近々、上田剛士による『ニューキッズインザシティ』のカバーもリリースされるようだ。

にしても、オリジナルも今の若い世代に是非聴いてもらいたい。

リザードのライブ音源+『サ・カ・ナ』のダブバージョンは現在サブスクで聴くことも出来るのだが、この辺は権利関係が曖昧で本人に還元されていないようなので、モモヨさんが今考えているという、今までの音から選りすぐった音源をアーカイブするのを待ちたいところだ(個人的にはリザード以前に、東芝とニッポン放送で録音されたという幻の音源の発掘に期待)。

最後に、モモヨさんと話していて印象に残った言葉で、この項を閉めたい。

「音楽理論は徹底的にやったよ。中学校でスパルタの音楽授業があったから。でもそのおかげで、音楽が身についた。学校で習う理論と自分が聴いているビートルズとかを統合して」

(つづく)


渋谷・屋根裏のリザード、1979年1月2日/撮影・地引雄一



高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。
90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?