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第14回の1: ニューウェーブを「絵」で表現した伝説のイラストレーター、金谷真さんは、1975年のカリフォルニアでパティ・スミスのポスターを発見した

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


ムーンライダーズの『モダーン・ミュージック』を聴いている。リリースは1979年。時代はすでにニューウェーブであったし、ポストパンクという言葉やノーウェーブという言葉も出てきていた。当時は次から次へと海外から日本に輸入されてくるニューウェーブ・レコードがどれもこれも良い波過ぎて、キャッチ・ザ・ウェーブが大変だった。

ムーンライダーズもその波に乗っていた。エドワーディアン・ジャケットを着た初期PiLのスタイルを踏襲したバンドの姿がアルバム・カバーで絵になっていた。その絵から、自分にとってはパンク以前の人であったはずのムーンライダーズなのに、鈴木慶一さんの嗅覚、感覚に信頼できるものを感じたことは確かだった。それはひとえにあの頃一斉にニューウェーブ化したみなさんがこぞって自分たちなりの取り組みをされていた中(業界ニューウェーブ)でも、ひときわ目立つこのジャケットがあったからこそ、だった。

今僕が聴いているのはサブスクなのでジャケットは小さすぎで、隠し絵のようになっているこの絵の詳細までは、このサイズではわからない、、、が、その絵の素となっているあの頃の気分は、この小さな絵からも窺い知ることが出来る。

ジャケットを手掛けたのは、1978年のニューウェーブ黎明期に、雑誌『プレイヤー』やシンコーミュージックの『ジャム』といった音楽誌、あるいは『ポパイ』で、見ないときはないぐらいに活躍されていたイラストレーター、金谷真(かなや・まこと)さんで、僕は彼の絵が大好きだった。

金谷さんはスピーディなタッチで、パンク/ニューウェーブのミュージシャンを多く描いていた。

特に、ジョン・ライドンを描いた時の筆致は絶妙だった。あの頃、ピストルズ・ロックンロールから一転し、ダビーな重いサウンドでピストルズ時代とは違う高めの声で歌うジョニーの存在感+セディショナリーズを脱ぎ捨てたにもかかわらず、相変わらずナイスなセンスのコスチューム・チョイスとそのヘア・スタイルのバランスを、金谷さんは彼独自のタッチで表現していた。

創刊時の『ポパイ』は一般的にはアメリカ西海岸の文化を紹介していたことで知られているが、パンクも積極的に取り上げていた。僕が金谷さんの存在を知ったのは『ポパイ』だった。

数年前に手放してしまったのでいま手元にはないのだが、『ポパイ』の最初期のパンク特集で大貫憲章さんを筆頭に当時の同編集部に出入りしていたエディター、クリエイターたちがこぞってパンク風なファッションに身を固めた写真が、パンク特集の誌面に掲載されていたことがあった。当時まだ原宿の〈赤富士〉を知る前だった自分は、そのページを穴が開くほど見ていた(僕が凝視したこの辺の記事は、後に自分が藤原ヒロシと始めるいくつかの連載、『ポパイ』では「エレキテル」、『宝島』では「LAST ORGY」のヒントにもなっている)。

その中に金谷さんはいた。

ダムドのデイブ・ヴァニアン風のオールバックな出立ちで。

「(パンクを)僕、最初から知ってるんで。それを伝えるのは、高木君が一番適任者だと思ってたんです。高木君が一番それをキープしてると思ったから。パンクのことを途中から好きな人っているけど、一番最初の頃から、大貫君あたりからずーっと好きでいてやめない人って、高木君しかいないと思ってたんだよね」

ようやく連絡を取ることができた金谷さんとの邂逅。開口一番で嬉しい言葉。

「僕が知っていることを今まで伝えた事って無いんですよ。1976年に自分はソーホー(NY )に住んでいました。日本人、1人も会わなかった。その頃ソーホーは工場とか倉庫とかだった。で、なんでNYに行ったのか、という話になると長くなるんですが、いいですか?」

「自分、育ったのは秋田なんですが、生まれたのは北海道なんです。屈斜路ってとこで家には電気なくて。なんでそこで生まれたかというと、うちのお袋は東京育ちで親父が秋田の能代ってところの出身で東京で結婚したんだけれど、親父の親友が北海道で観光写真撮ってて遊びに行ったらあまりにも綺麗なとこで、引っ越したんです。そこで親父は小学校の教師をやってまして、小学校って言ったって50人ぐらい。電気もないんだよ。自分はそこの小学校の宿舎で生まれたんです。あるとき姉が怪我して、その時初めて街に行って、姉が初めて電灯ってのを見るわけ。で、「あれなーに?」って聞いたらしいんですよ。それを見た親父が、自分にとってはすごく良いところかもしれないけど、子供達にとって電気とか知らないとか、良いかどうか考えて、北海道から能代に戻ったんです。それが3歳の時」

「能代では親父は銀行員やってたんだけれど、僕が10歳の時に喫茶店始めたんです。それまで市内に喫茶店ってなくて。最初の喫茶店ですよ。そこで常にラジオやレコードかけてたんです。ナット・キング・コールとか、グレン・ミラーとか、マントバーニとか、ビートルズ、ベンチャーズもあった。近くにアサヒ楽器っていうレコードも扱う店があって、そこで買ってた。だからほとんど洋楽聴きながら育って、中学校のときに映画館で『ヘルプ』がかかって、二本立てで、もう一本が『ポップギア』。それで初めてアニマルズ見て、一気にブリティッシュ・ビートにハマったんです。ビートルズも出てるんだけど、ビートルズ以外のバンドを見るのが初めてだった。アニマルズの『朝日のあたる家』で一気にハマって、タートルネック着たスペンサー・デイビス・グループも出てた。あと、ナッシュビル・ティーンズ『タバコ・ロード』」

「そんなバックグラウンドがあって、中学校の時は漫画家になりたいと思ってたんです。絵が得意だったから。それから高校のときにポップ・アートが出てきて、アーティストになりたいと思ったわけ。で、アメリカ行きたいと思うようになって、武蔵美の彫刻科だったんですけど、武蔵美を卒業して、その当時アメリカに長くいられるのは観光ビザが3ヶ月で、留学ビザの方が1年以上いられるってことで留学したんです。オークランドにある語学学校に行ってバークレーに住んだんです。1975年。その頃僕アメリカの音楽って全然好きじゃなかった。ブリティッシュ・ビートのグループってアニマルズにしてもヤードバーズにしてもシャープな感じがあったんです。でもアメリカのバンドって、ボストンとかパンタロンでラメのシャツみたいなの着て、しかも1曲長いじゃん。グレイトフル・デッドとか片面20分とか。ああいうのがかっこいいと思えなかったんだ」

「でもある時バークレーのとあるレコード屋に入ったら、ビックリしたのが、そこが全部自分が好きなのが置いてあるようなレコード屋で。まずブリティッシュ・ビートほとんど。あとはヴェルヴェット・アンダーグラウンド、イギー・ポップ、MC5、一番感激したのはミッチ・ライダー&デトロイト・ホイールズ、日本盤は1枚しか出てなかったのが他、全部あった。そして、そのレコード屋にあるポスターが貼ってあったんです。同じのがずーっと貼ってあって、それ見たらその頃のバークレーのイメージってカラフルなものだったんですけど、そのポスターはモノクロームで。それまで見たことのない感じのポスターで、シャープな感じ。細いネクタイしてて、それがパティ・スミスの『ホーセス』だったんです」

(つづく)

金谷真さんが描いたジョン・ライドン、『Player』誌1980年3/30号表紙



高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。
90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

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