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第13回の1:マタギの山から降りた写真家・地引雄一さんは、新宿でパンク・ロックのシングル盤と出会う

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


1979年。
新宿ロフトからの帰り、品川行きの山手線に僕と同乗したその人は、おもむろに、
「ところで、カンという名前はジャーマン・ロックのグループから名前をつけたの?」

カメラを肩から下げた彼の声は穏やかで、パンク・ロックからは遠い雰囲気。
あの頃の雰囲気として、ライブハウス界隈はまだ長髪の人が多い時代だったので、短髪であればたとえそれが逆立てていなくても長いよりは全然オッケーだった。その人の髪は長くなかった。そして印象的な目鼻立ちで顔を忘れることもなかった。

「あ、違います」

当時ベスト盤が出たばかりのそのグループは、ジョン・ライドンのお気に入りでもあったのは知っていたが、聴いたことはなかった。
今思うと16でライブハウス通いを始めたのは、バンドだけでなく、そこで知り合う人と話すのも面白かった、という理由も大いにあった。

写真家、地引雄一:
東京ロッカーズ周辺から始まった東京のパンク、ニューウェーブ周辺を綴った『ストリート・キングダム』の著者。レーベル、テレグラフ・レコードと雑誌『EATER』の主宰者としても知られている。

「何故パンクに興味を持ったか、という話から入ると、僕は大学で民俗学とかそういうのをやりたくて勉強していたんだけれども。それは、神話とか民話の中にある感覚とか考え方とか、日本の古い生活や伝統が残っているところに、ある種の憧れみたいなものがあったからかもしれない。大学出てから写真の学校にも通って、写真を撮り始める」

地引さんはそう言ってご自分の写真が初めて掲載された雑誌を見せてくれた。奇しくも表紙は当時の東京のパンク・ガールだ。

「これは福島なんだけど、祭りに興味があって、大学の卒論も日本の祭りだったんだ」

『カメラ毎日』1978年9月号に掲載された地引さんのプロフィール文には、こうあった。

『5年前の幡祭りの時に初めて訪れた木幡の村は、木製暗箱を担いで歩き回るのが似合っていた。村の人たちの素直な好意に支えられて写し続けたこれらの写真は、僕と画面に写された人たちとの合作とも言える』

「1年近く写真を撮って放浪生活をしてたんだけれども、逆にそういうところに入っていくと、都会というものが新鮮な目で見られるようになってくる。例えば囲炉裏を囲んで生活していても、テレビは必ずあるわけで、そこからどんどん東京の情報が入ってくるわけ。ちょうどピンク・レディーの全盛期で、こどもたちはピンク・レディーの服だの靴だの着てたり、地元の若い人たちに話聞いてもみんな東京への憧れをすごい持ってる。その当時は出稼ぎが一般的だったんで、家族から離れて大変ですね、と聞くと、いや、東京の方が面白い、と」

現に前述のプロフィールの文章も、こう続く。

『しかし何度も足を運ぶうちに新鮮な緊張感は薄れてゆく。見方が変わり写真も変わる』

「秋田にマタギっているじゃない。そのマタギの親分のシカリってのがいて、その人に山ん中まで会いに行って話聞いたら、マタギなんかやりたくなくて、でもやらざるをえない、みたいな。こっちがイメージしてた伝統的社会と全く違うわけ」

『村の生活から逃れて都会へ出てゆく若者たちのように、今僕はまた東京にひかれている』
(前記『カメラ毎日』プロフィールより)

「そんなこともあって、僕も都会に対して新しい見方で見るようになってきて、そんなとき、まず何をしたかというと、都市の音楽といえばロックで、ロックの名盤とされるものを買い込んで聴くようになる。もちろん高校の時はビートルズは聴いてたけど、大学ん時は岡林(信康)とかフォークを聴いてたんで、ロックはそれからなんだ。ロック名盤とされていたクリーム聴いたりジミヘン聴いたり、ライブもリッチー・ブラックモアやディラン、クラプトン、サンタナとか聴くんだけれども、いずれもみんな過去からきたかんじで、今現在起きているものに感じられない。果たして今の時代のロックってなんなんだろうか、と、思っていた」

「今」面白い何かを模索した地引さんは、地下演劇に足を運ぶ。

「当時、曲馬館という劇団があって、稽古場は吉祥寺と三鷹の間にあって、そこはわけのわからないエネルギーがある場所で。出入りするようになって、それから宣伝用の写真頼まれるようになって、渋谷の空地にテント建てたときは設営も手伝ったりしてた。けど、封鎖された学園紛争の所に突入して逮捕されたりとか、勝共連合が殴りこみに来たりとか、そんなかんじだったので自分にとっては行き詰まりを感じてた」

袋小路はメディアによって開かれることになる。

「そんなときに『平凡パンチ』を見ていたら、小さな囲み記事で、今ロンドンでパンク・ロックというものが若者の間でブームだというのを読んだ。写真も女の子が髪の毛ツンツンたてて、安全ピンさしてる写真が載ってて、それ見てすごい衝撃受けて」

地引さんのシフトがいきなり高速にチェンジした瞬間だ。

「新宿レコードの入ってすぐの段ボール箱に入ってたシングル盤を買い漁って、これはもうパンクしかないと思っていた時、日本にもこういうのが無いのか、と、思うようになったら、これに出会うわけ」

それは『ロッキング・オン』1978年2月号の読者投稿欄に掲載されたミニコミの記事だった。

『ROCKIN DOLLS 日本のロック専門誌。創刊号=日本のニューウェーブムーブメントIN東京、紅蜥蜴特集。2号=日本のアンダーグラウンドヒーロー達(3/3、ラリーズ、村八分、紅蜥蜴)150円』

(つづく)

本文中で触れた『カメラ毎日』1978年9月号


高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。
90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。


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