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教育ってなぁに?

今週のOUTPUT!No.2 教育とは

そろそろ我が故郷である長崎に最後に帰省してから1年が経とうとしています。長崎に帰りたいというよりかは、長崎の変わった街並み、あるいは変わらない街並みを見たい、という気持ちの方が強いですね。不思議なものです。当時は大した思い入れのなかったものが、こうして離れると感慨深いものになるとはね。この現象に名前はあるのでしょうか。どうもAnbyです。

突然ですが皆さん、長崎と言えばなんですか?

そうです、ZOPですね。え?なんですか?もしかしてご存知でない?あ、そうかこの時代ではまだそこまで有名なものではなかったのでしたね。いえ、これは失礼。知らない方は、私の過去の記事を下に貼っておくので、ぜひご覧あれ。

https://note.com/be_ambitious_45/n/nfc7d1df301c2

先日、というほどのものではないですが、ZOPにて「月1zoom」なるものに参加したのです。これはまぁ、定期的に行っているものなのですが、今は大学も春休みに入り、ある程度時間の融通は利くので参加していますね。大学の講義がある期間では時間の都合上、バイトもありましたし、中々参加できずにいたのです。

まぁ、実際のzoomでの内容はここでは深く掘り下げませんが、それが終わった後、懇談会みたいなノリで残れる人はそのまま残って少し話す機会があったのです。今回はここでのふとした話をきっかけに考えたことを書こうと思いますよ。

1.学校教育に不満を抱えている人が多い?

さて、その懇親会的なやつにて、このような話が上がりました。

今までの中で学校教育に不満に感じたことがありますか?

という質問ですね。実際は表現が違ったような気もしますが、まぁ大体こんな内容でした。その質問をした人の課題の関係で、その質問をしたらしいのですが、これに関して、その場にいた人(多分6人くらい?)全員が、「ある」と答えたのです。

私は別に不満というほどのものを感じたことがなかったので、手を挙げなかったのですが、私以外全員という事実に驚きを隠せませんでした。そんなに不満に思うことがあったんだなぁと思いましたね。

実際いつ、どのように不満を感じたのかは聞いていないので、分からないのですが、私自身は「どうして自分は不満を感じたことがないのか」についても自問自答することになりました。そうです。要は暇なのです。

そしてそんなことを考える中で、結局これに辿り着きました。

(学校)教育とは何か?

なんか「生きるとは何か」みたいな究極的な問いに辿り着いたわけですが。それについて考えたことをこれから述べていこうかなと思います。

まぁ、どちらにしてもいつかは考えようと思っていたことなので、この際、割と真剣に考えようとなりました。

2.学校教育とは何か(文科省より)

というわけで、まずは学校教育というものの目的あるいは定義みたいなのを調べようと思って、文科省に当たってみました。それに載っていたのは以下のような文です。

学校教育は、すべての国民に対して、その一生を通ずる人間形成の基礎として必要なものを共通に修得させるとともに、個人の特性の分化に応じて豊かな個性と社会性の発達を助長する、もっとも組織的・計画的な教育の制度であり、国民教育として普遍的な性格をもち、他の領域では期待できない教育条件と専門的な指導能力を必要とする教育を担当するものである。 ー文部科学省 学校教育制度に関する基礎資料ー学校教育(特に義務教育)に関する主な提言事項より

第1項目に載っていた内容になります。どうでしょうか?皆さんが思っていた「学校教育とは」におけるものと一致していましたか?

「その一生を通ずる人間形成の基礎として必要なものを共通に修得させる」とありますね。これに関しては、大体の人が「学校ってなんのためにありますか?」て聞かれたら答える内容だと思います。

要は「生きていくための術を身につける」ということですね。これに関しては、特に義務教育過程に関して当てはまることでしょう。

これに関しては私もきっとそのような内容を答えるでしょう。

ただ、注目すべきは後半の文章でしょう。「国民教育として普遍的な性格をもち、他の領域では期待できない教育条件と専門的な指導能力を必要とする教育を担当するものである」とありますね。

学校教育が国民教育として普遍的な性格を持っているのは初めて知りました。そして他の領域では期待できない教育条件を必要とする教育であることも初知りですね。

3.義務教育を受けないという選択肢は存在するようになった

さて、学校教育そのものについてわかったところで、次の展開へ参りましょう。今度は世の中に目を向けることにしました。今現在、世の中で何が起こっているのか。

端的にいうと、「いじめ問題」ですね。これに関しては小中高問わずにあるようです。実際それが原因で自殺、軽くても登校拒否など、「学校に通う」という当たり前のように享受するべきことができていないのが現状のようです。

これに関して、メディアでよく取り上げられているのは学校側の対応ですね。正直なところ、学校側に全責任を押し付けるのは無理があると思っているのですが。まぁ、それに関しては触れないようにしましょう。

いじめ、とまではいかなくても、冷やかしみたいなものはどの学校でにおいても少なからず存在するものでしょう。性格、容姿、なんでもいいですが、俗世間と離れた価値観、ともすれば自身の狭い領域での常識から外れた人たちに対して、嫌悪感を抱くのは人間としては当たり前のことではあります。

自分が常識だと思っていたことと外れた人と遭遇した場合、あなたはそうでない人と同じようになんの躊躇もなく普通に接することは難しいでしょう。分かりやすい例で言えば、街中、あるいは電車の中でも構いませんが、奇声を発している人に対して、あなたはどのような対応をしますか?

みてみないふりをするか、面白がって動画に撮ってSNSに投稿するでしょう。

まぁ、いずれにしても自分の中での常識と違う人に対しては、心理的に壁を作ることになるのでしょう。

今の時代、多様性という言葉が相応しいように私は感じています。「みんな違ってみんないい」という言葉がありますが、個人的にはこの言葉の範疇を超えたような事態になっていると思います。

性差別問題、性格差問題、バイセクシャルやLGBT、ゲイやレズなどなど。見た目だけでは分からないような中身の多様性も増えてきています。というと語弊があるかもしれませんが、正確には、それが顕在化してきた、というべきでしょうか。

世の問題として取り上げられるようになった、ということです。

さて、話を戻しますが、そのさらに分化していく多様化に伴って、もはや「義務教育を受けなくてもよい」という選択肢が登場しているようなのです。

「学校に行きたくないのなら行かなくていいじゃない」みたいな発言をする人もいます。

「学校に無理してまでいく必要はない」ということに関しては私も賛成ではありますけど。かと言って別に義務教育を受ける必要はない、ということにはならないと思っています。日本において、義務教育課程から外れる、ということはすなわち俗世間から離れて生きていく、ということになるのではないでしょうか。出家することと同じ次元のように感じますね。

4.学校教育とは、「変動する時代を生き抜くための術を身につける」場

色々長くなってしまったので、そろそろ結論に入りたいと思います。早速結論は見出しで言ってしまったわけですが、学校教育とはどういう立場なのか、何をするための場なのか、という自分で立てた問いに対して、このように答えることにしましょう。

学校教育とは、常に変動する時代を生き抜くための術を身につけるための場である

時代は変わるものです。私自身はまだ20年ぽっちしか生きていませんが、それでも十分時代の移り変わりは感じられます。それもゆっくりではなく急速に。時代の流れはまさしく水の如きものです。

決まった形はなく、常に形を変え、それでいてどんな形にも変わることができる、時代の流れとは、まさしくそのようなものだと常々思います。

そんな流水のような時代の中で、あなたはどのように生きますか?あなたがもし流れの強い川で生きる魚としましょう。どのように生きますか?

ただ流れされながら生きていきますか?それとも流れに逆らって生きていきますか?その場合、あなたはどうやってそれを実現しますか?

生きていく上で、考えることは大事なことです。考えることをやめたら死んだも同然だと言っても過言ではないと思っています。ただ流されるだけの人生に、意味を見出すことができますか?

とは言っても、人は勝手に考えられることができるようにはなりません。それなりの経験、鍛錬が必要です。ではその経験はいつするのでしょうか?その場が学校教育です。

思春期はその後の人格形成において重要な役割を果たすと、習った記憶がある方もいるかもしれませんね。その大事な思春期を学校という家庭とは違った、普通に過ごしているだけでは経験できない環境で過ごすことで、「考えるという経験」をすることができるのです。

親や先生は、その「考えるという経験」を提供する義務があります。それが義務教育なのではないでしょうか。特に親は頑張らなければなりませんね。

5.まとめ

というわけでそろそろ締めくくりに入ろうと思いますが、結局のところ、教育に関して、一番責任重大なのは「親」という事になる、というのが最終的な私の結論であります。

生まれた頃から世話をし、教育していくのは親ですから。親になる、ということはすなわち、人を育てる、ということになるのでしょう。そういう意味では、学校の先生となんら変わらないはずです。逆に言えば、親である時点で教育者になりますね。

子が勝手に育つのは高校からです。それまでに変動する時代に適した思考力ができるように育てることができたらいいですよね。私はそれができるような親になりたいものです。

以上で今回の内容は終わりになります。最後までお読みいただきありがとうございました!また来週も読んでくださると嬉しいです!ご意見、感想などをもらえるとさらに嬉しいです!

ではまた!

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