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意思決定軸

三連休のなか日。
子供が寝静まったあとに夫とおたのしみをした
鹿児島から送られてきた鶏刺しを食べながら
ぼんやり話した。

結婚する前のわたしは利己的で
「私の人生は私が決める!」
とばかりに自分の気持ちを優先して生きてきた。
意思決定の軸はいつも自分にあって、
「わたし」がどう幸せになるか
「わたし」がどう望むか
が人生の命題だった。
やりたいことをやり、自由に過ごしてきた人生。

余談だけれども今も真の利他はないと思っている。
誰かのためというのは私なんかが烏滸がましいと思うからかもしれないし、相手のためだと思っても別の誰かが犠牲になっているかもしれないから。
森林伐採だって誰かの富のためのものだよね、という。

さて、話は戻って
こんなマインドの私にとっては
産後の自己犠牲が苦しいものとなってしまうのも
すぐの話であった。
その先で考えるようになったのは
「家族の幸福が最大値であるか」ということ。
これが今の意思決定や感情のプロセスで最大の軸になっている。
結局のところ、この発想も、家族が幸福→自分も幸福という、利己視点が強いんだけれど。

それでも。
夫と妻は唯一選べる家族という関係、
親と子は血の繋がりが一番濃い特別な関係、

…だとしても!
相手は自分以外の人間であるので、双方この境界を見誤ってはいけない。
と感じるようになった。

その行動が家族にとって幸福な選択なのか?
あるいは誰かを不幸にさせているのか?
その視点に絞ることにしたし、自然とそうなった。

前の自分だったら、旦那が飲み会が多い週は機嫌が悪かった。そのなかには嫉妬の気持ちもあったと思う。
でも今はポジティブな気持ちで送り出せている。
夫が楽しんで帰ってきてごきげんなのであれば一緒にいる家族もパァっと明るい気分になるし、職場の飲み会ならコミュニケーションが仕事につながるかもしれない。
だから必要以上に心を乱さない。
飲み会の時間帯なんて、もうとっくに子供も寝ているから、子供にとってもデメリットはない。余計なことを言わないで済むから夫婦仲もそれなりでいられているし、私が自由にしたいとき夫はいつでも受け入れてくれている。

何も悪いことはなかった。

勿論連絡はしてね、とか、寂しいな、とか
そういうコミュニケーションはとりつつも
家族の幸福の最大数が変わらないならいいかなと受容できるようになった。
我ながら大人になったと思うし、いい意味で期待やプランを持ちすぎないことで、裏切られることも減る。えらいえらい。

息子は生まれ落ちた瞬間から私を大人にしてくれている。まだまだ足りない部分の方が多いけど、こういう小さな成長が今後の自分を確立してくれると思うと心強い。

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