渡辺優博士
東京大学人文社会系研究科・宗教学宗教史学 准教授
昨年の春、彼の論文『教祖の身体-中山みき考』(2015年)を読み深い感銘を受けた。
実は渡辺優氏は僕にとっての「アイドル」である。
なにせ論文が面白いのなんの。掘り下げる対象の選び方にも、凡百には及ぶべくもないセンスを感じている。ワクワクさせてくれる論文の書き手というのは、いそうでいないものである。
この論文以来、すっかりファンになってしまった僕は、親しみを込めて彼を「優ちゃん」と呼んでる。無論一度も会ったことはないのだが、ファンなのだからそれくらい許されるだろう。
優ちゃんは以前、天理大学の講師だったが、今では母校の東京大学に移り准教授になっている。
天理大学に残っていたら、天理教に関する論文を書く時に様々な制約もあると想像されるので、東大に移って良かったと思う。ナニモノにも妨げられることなく、これまで以上に自由な発想で研究ができるのではないだろうか。
さて今回は優ちゃんの名論文『教祖の身体-中山みき考』を横目で見ながら、「最後の御苦労以後の傷つき衰える教祖中山みきの身体」と、それをリアルタイムで目の当たりにしていた「傍なる者たち」の信仰について考えてみたい。
「最後の御苦労」について
優ちゃんのこの論文の中で、一番印象的だった一節がこれだ。
この記述に目の覚める思いがした。
『稿本天理教教祖伝』には教祖が年老いて衰弱していく記述がほとんど無い。
明治20年陰暦正月二十六日の直前を描く第9章「御苦労」と第10章の「扉ひらいて」においても同様である。教祖が傷み傷つき衰える教祖の客観的な記述は皆無に等しい。いやむしろ、
など、教祖は88歳にして壮年男子並に頑強であったことが殊更に強調されていたりするが、僕はこの記述を額面通りに受け取ってよいものなのだろうかと、ふと考えてしまうのだ。
20歳の真之亮(敬称略)と菊太郎の二人は、老いた教祖の背に覆いかぶさり、全体重をまともにかけるなどということが本当にできたのだろうか?
よしんば教祖のご指示通りに背におぶさったとしても、その足は畳(板の間か?)に着けたままで教祖に体重を預けることなく、背にそっともたれるだけだったのではないだろうか。いずれにしてもそれなりに加減していたのではないかと疑ってしまう。
『稿本天理教教祖伝』や『天理教教祖伝逸話篇』には教祖の常人離れした力を描いたお話がいくつかあるが、ほとんどが高齢になられてからの挿話であり、しかも誰かと引っ張りあう力比べや、相手の手の甲の皮をつまんで持ち上げる話など、力を発揮する相手が目の前に存在するお話が多いように思う。教祖が単独でとてつもない重量物を持ち上げたとかいう話ならともかく、二人を背負った話は絶対的客観性に欠ける逸話のような気がしている。
断っておくが、僕は教祖の神性を1ミリも疑っているわけではない。神様が入り込んでいる教祖である。超人的な力を発揮されても不思議ではないが、あえてその力を発揮したお話を強調せずとも、教祖の神性がいささかも損なわれることなどあるはずもない。
であれば、こうした逸話をもって「教祖は本当に神様なのだ」と、ことさら強調する必要はないと僕は感じている。
いきなり『稿本天理教教祖伝』の記述にケチをつけた感じになってしまったが、僕は「教祖の心は神であっても、その肉体は人間としての生物学的制約に従って存在していた」と言いたいのだ。つまり教祖も人間の身体を持つ以上、痛み、病み、衰え、死からは逃れられなかったということを強調したいのだ。
教祖の身体は我々人間と同様、年齢とともに確実に衰えていかれた。
そう考えると、30年来の寒さといわれた真冬の拘留(最後の御苦労)が、89歳の老婆にとってどれほど厳しいものであったか、あらためて想像し直すことができるだろう。
余談だが、僕は櫟本分署跡保存会を訪ねたことがある。
どうしても、極寒の中で教祖が身を置かれた櫟本分署の、街道に面した板の間を見たかったからだ。
現場に立ち、もっと早く来るべきだったと痛切に思った。教祖が座らされた板の間を見て心からそう思った。櫟本分署跡保存会さんに対して、「よくぞ保存してくださった」と、感謝の気持ちで胸がいっぱいになったのを憶えている。
『稿本天理教教祖伝』には教祖が身体的暴力を加えられる描写はないが、この吹きさらしの板の間に座らされてるだけで、老いた体は確実なダメージを受けたはずだ。ちなみに
という文章がある。これは天理教本部が徹底的に無視している八島英雄『顕正教祖伝』からの抜粋だが、実在する「神田家」という固有名詞まで出している以上、まったくの創作とは考えにくい。充分にあり得る話だと思う。
何故なら『復元』第31号にも
上記引用を現代文に書き直すと、
「明治19年2月、櫟本分署より巡査6人が来て表と裏の門を閉め、お屋敷の中に居る者を調べて、教祖と中田(仲田儀三郎)と桝井伊三郎を拘引して12時から拘留となり、教祖はおひさ(梶本)様が付き添って12日間分署の板の間に留置された。
その時差し入れに行くと巡査が教祖を闇に打擲(手や杖で叩くこと)することはなはだしく、見るも涙の種、思うも畏れ多いことであった。
その後(釈放後)仲田儀三郎が患い、5月末に亡くなった。また辻(忠作)は4月25日頃から12日間にわたって大患いとなり、頭髪も抜けるほどであった・・・」
と書かれている。仲田儀三郎が拷問を受けたのであれば、教祖も同様にそれを受けた可能性はゼロではないだろう。
この『復元』での記述については大先輩の信仰者であるM氏が
と否定している。言いにくいのだが、もしかしてM氏は辻忠作に恨みでもあるのだろうか。『復元』に収録された辻証言を
「一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。」
と、忠作さんの知識レベルやパーソナリティを根拠に否定する論法は、研究者としての姿勢を疑いたくなる。忠作さんの子孫にしてみれば看過できない侮辱なのではないだろうか。
確かに辻さんはユニークな方だったようだ。『清水由松傳稿本』にはその型破りな人となりが記されている。たとえば
などと書かれてる。「常識をわきまえない人」とディスる一方で、いかにも教祖がお好きなタイプの汗っかきで泥臭い高弟という感じもしっかり伝わってくるのが救いだ。僕はそんな辻さんが、わざわざ嘘の証言をするはずがないと思っている。今さら真偽は調べようもないのだが。
M氏のことは置いておき、『稿本天理教教祖伝』には梶本ひさ(初代真柱の姉)の以下の証言が記述されてる。
この梶本ひさ証言については『稿本天理教教祖伝』に記されている以上、疑うことなく文字通りに受け止めるべきだろう。ひささんは警官が教祖に水をかけることを全力で阻止したのだろう。しかし厳寒期に教祖が水をかけられそうになったことは確かである。
教祖に対する拷問があったにもかかわらず、『稿本天理教教祖伝』にそれが記述されていないのは、たとえそれが旧法時代の出来事だったとはいえ、国家権力による拷問の事実を『稿本天理教教祖伝』という教祖の伝記に残すことを二代真柱が良しとしなかったからではないか?と考えるのは邪推に過ぎないだろうか。
余談だが、梶本ひさは櫟本分署で教祖がおやすみになるとき、教祖の草履に自分の帯を巻いて枕の代わりに使っていただいたが、その帯を後年廃棄している。
人から「あんなに大事なものを捨ててしもうたんかいな?」
と問われた時。
「あんなものを置いておけるかい!」
と大変な剣幕で怒ったという。
それほどまでに、傍な者にとっての教祖最後のご苦労は、思い出したくもない辛く悲しい出来事だったのだ。
拷問が行われたか否かはさておき、教祖の身体は確実に衰弱していった。これについては教祖は立教以来神そのものであったという「突発説」支持者にも異論は無いだろう。
最後の御苦労からお屋敷にお帰りになられてからの教祖のご様子について『天理教教祖伝逸話篇』に
という記述がある。この逸話の元になっているのは『山田伊八郎文書』だと思われる。
この二つの文章を対比すると、『山田文書』には
「帰宅ハ旧正月二十六日に。おかいり後、もどりてから今日で十二日目に
なる。」
とあり、教祖が釈放されお屋敷に帰られてからその日まで12日間、床に伏したまま寝ていたことと、聴力も視力も失っていたという、驚くべきことが記述されている。『稿本天理教教祖伝』に記述されていない理由は想像できるが、そこは敢えてスルーする。
しかし、視力も聴力も失うほどに衰弱した教祖のお姿を思い浮かべる時、深い悲しみと激しい怒りが僕の心の中で渦巻くのだ。
また『山田文書』の最後に記されている「こんとハ、たすけより、ざんねんはらしがさき。(今度ばかりは、たすけよりも残念晴らしが先や)」という常ならぬ強いお言葉を目にするとき、やはり拷問はあったと想像したくなる。
教祖はこの後、6月22日に最後の御苦労で共に拘留された愛弟子の仲田儀三郎さんを喪うことになる。儀三郎さんに関しては事実上の拷問死と言って間違いないだろう。
冒頭で引用した優ちゃんの論文の一節、
に再度目を通す時、当時の側な者達が教祖に対して抱いていた「たすけの主体としての教祖であり、脆い身体をもつ守るべきお方」という思いの端に触れることが出来る気がするのだが、それはお道の信仰者にとって、とても大切なことだと思っている。
そうした思いをもって、
という記述を読み直すと、教祖のお孫さんであるひさ(梶本ひさ・後の山澤ひさ)さんが思わずかけた「おばあさん」という言葉が、単に肉親ゆえに出た「おばあさん」という言葉だったのではなく、年老いた教祖が守るべき者、弱き者でもるという思いがひささんの中にあったのではないかと見ることもできる。想像が飛躍し過ぎてるかも知れないが。
『稿本天理教教祖伝』の、最後の御苦労で教祖にお供して櫟本分署にいたひささんを、通りを行く人が見て言ったという
との記述にある「あんな所へ年寄り一人放って置けるか」というひささんの述懐からは、年老いた人間としての教祖を思う気持ちがあふれ出ている。
そうした気持ちは、おそらく側な者や身内や高弟たちの間での共通した思いだったと想像する。
もちろん、当時人々にとって教祖は真に神様だった。教祖様と書いて「かみさま」という読み方もしていたと聞く。けれども教祖のリアルを知る側の者にとっては、中山みきは傷つき衰える身体をもった「か弱き聖者」でもあったのだ。
教祖に対してそうした見かたをすることは不敬なのかも知れないが、むしろ信仰を深める一助になると僕は信じている。
そして扉は開かれた
こうした新しい教祖像を元に第10章「扉ひらいて」を読むと、また違った味わいがある。
明治20年陰暦26日(2月18日)正午頃からいよいよ教祖の容体は悪化した。
おつとめをつとめることを躊躇う人々に対して、神様は本席のおさしづを通して「神が怖いか、律が怖いか」と迫ったことはご承知の通りである。
この記事を書こうと思い立つ以前は、『教祖伝』の第10章を読むたびに、真柱をはじめとする高弟たちが心を定め切れず、何度も「おさしづ」を仰ぐことに「何をグズグズしているのだ」とイラついたが、今では自分の短慮を恥じている。
神様は、法律を恐れず神の思いに従う道をとることを迫り続けた。しかしお側の人々は決して法を犯すことが怖かったのではなく、神様の思いに従うのか、それとも病み衰え、命が尽きようとしている教祖を守るのか、という究極の選択を迫られてたのだ。
優ちゃん(渡辺優博士)は教祖が現し身を隠される直前に起きたこの場面を次のように表現している。
さすがだ。「看破する」とはこういうことを言うのだろう。
そして遂に「つとめ」は所定の人数が揃わないままつとめられることに決まった。
みなさんが知る教祖伝の一節。
我々はこの人々を忘れてはならないと思う。
前川菊太郎と橋本清は後に本部を去るが、やはりこのおつとめに出た意味は大きい。
ここでは「若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。一同意を決し、下着を重ね足袋を重ねて、拘引を覚悟の上・・・」と拘引される危機がクローズアップされているように見受けられるが、この人たちはそんなことを少しも気にとめていなかったはずだ。ただただ教祖を守りたかったのだ。このおつとめは、当時の人々にとって「御願いづとめ」でもあったのだから。
そして十二下りが終わるとともに、教祖は満足げに微笑んで現し身を隠される。
何度読んでも泣ける。このくだりは。
優ちゃんの論文を読んで以降、今までとはまた違った気持ちがこみ上げてくる。
神の退場ともいうべき場面に遭遇し、奈落の底にあった人々がこの後の「おさしづ」によって元気を取り戻すことはご承知の通りである。
よって件のごとし
教祖が神の社としての扉が閉じたその瞬間から、人間による「たすけ」の道が開かれたのであり、同時に教祖が身体という制約を取り払い、自由自在に世界たすけに駆け巡るための扉が開かれたのだ。
明治20年陰暦正月26日以前、「たすけ」の主体は教祖だったが、教祖が現し身を隠されて後、人間も「たすけ」の主体となったのだ。
今を生きる僕たちは目に見える教祖を知らない。
けれども陰暦正月26日をもって、教祖はお側にいた人々以外の者にも触れ合うことの出来る身近な存在になったのだと思う。
それは教祖と共に生きることでもある。教祖がおぢばの教祖殿に留まるだけではなく、世界中を駆け巡っておられるということは、僕たちの傍らにいつもいてくださるということなのだから。
病める人・悩める人を前に真剣な祈りを捧げる時、教祖は僕たちの傍でお働きくださるのだだから。
そしてその教祖は、扉が開かれたあの日の傷つき病み衰えたお姿ではなく、僕たち一人一人が思い描く若々しく活き活きとした教祖であっていいはずだ。
僕たちは教祖の息を直に感じることができた先人たちと何ら変わることなく、教祖と共に今を生きている。きっとそうに違いないと僕は強く思っている。
よって件のごとし。
追記
今回の記事は渡辺優ちゃんに「おんぶに抱っこ」が過ぎるものと自覚しております。
節操のない引用っぷりに自分でも辟易としておりますが、でもとにかく、自分の思いを文字に込めることはできたと思っております。
優ちゃんに感謝です。