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(続)春季大祭を迎えるにあたり-『御教祖御臨終のおさしづの考察』より-

明後日はいよいよ春季大祭です。明治二十年陰暦正月二十六日に思いをいたす上での参考になるやもしれぬ、と感じましたので、取り急ぎ記します。

前々回の記事『春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-』でも掲載しましたが、以下に明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後の『おさしづ』の割書を引用します。

明治二十年一月九日(陰暦十二月十六日)より教祖身上一寸御障りつき、御やすみになり、同一月十八日(陰暦十二月二十五日)の夜よりおかぐらづとめ並びに十二下り始まり、二月十七日(陰暦正月二十五日)夜まで、毎夜おつとめあり、又二月十八日(陰暦正月二十六日)正午十二時より教祖の御身上迫りしに付、それよりかんろだいにておかぐらおつとめ、あとへ十二下りのてをどりあり。その時真之亮より詰合いの人々へ、だん/\御談示の上「おつとめの時、もし警察より如何なる干渉ありても、命捨てゝもという心の者のみおつとめせよ」と仰せあり。それより皆々心を十分定め、その用意して、おつとめに掛かりたる者、地方泉田藤吉、平野楢蔵、神楽真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田与之助(宮森与三郎)、お手振り清水与之助、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之助、鳴物中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(永尾)(三味線)、橋本清(つゞみ)の人々なり。家事取締の任に当りたる者、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、梶本松治郎にて、以上総人数十九人なり。おつとめは午後一時より始まり、二時に終る。右おつとめの終ると共に、教祖息を遊ばされずなる。それより内蔵の二階の中にて、飯降伊蔵により御伺あり。

『おさしづ』割書 明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後

この割書に続いて

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

『おさしづ』明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後

とのお言葉が下ったのは皆さんご承知の通りです。
『みちのとも』立教99年(昭和11年)6月号にこの時の状況をさらに詳しく記した文章があるそうです。
それが、史料集成部 の白藤義治郎氏が教祖50年祭(昭和11年)の頃に『みちのとも』に連載していた「御教祖御臨終のおさしづの考察」です。
今回掲載するのは、その文章の仮名づかいを読みやすく改められたものですが、僕自身は『みちのとも』に掲載された原文を確認できておりません。なので二次資料であることをご承知おきいただいた上で、あくまでも「参考資料」としてお読みいただければ幸いです。

その頃御休息所に数氏の御看護を受けさせられて、御臥床にあらせられた御教祖は、鳴り響いてくる勇ましい陽気なおつとめの歌声、楽の音を聞し召されて、いと御満足げに拝せられたが、 次いでそのおつとめ半ばを過ぐる頃より、北枕西向きとならせられ、御右手を外孫梶本ひさ女の胸に、御左手を御自らの御胸の上に置かせられて、静かに御やすみ遊ばされたのであります。しかしながら、それがやがて御永遠への御眠りに、否、 やしろの御扉を開かせられて、永遠に出で立ち給うとは、誰一人として思いそめなかったのであります。

一方「かんろだい」を芯に、なされていたおつとめは順次終わりへと、幸いに警察官憲の臨場干渉も受けずに実に不思議にも運び行きて、今や十二下り目の最後の御歌、

「十ド このたびいちれつに だいくのにんもそろいきた なむてんりおうのみこと」

と、次いでいよいよ最後の「なむ」と、一同斉唱とともに「かんろだい」を背後として最初の基位置に、方向転換の足を踏み変えた際、にわかに御休息所の方より血相を変えて馳せ来る一高弟がありました。(中略)一同はその異常なる顔色を見て、期せずして、
「きっと警察が来た」
と直感したと言われています。しかしながら、その高弟の告ぐるところには、
「御教祖様、今息御引き取りになりました」
という、さらにより重大なる悲しき知らせをもたらしたのでありました。一同は、
「唯わぁと一言言ったばかりや。あとは何とも言葉の出す者がなかった」
との現存高井猶吉先生のお言葉のごとく、また涙もろき女性たちは、その場所に打ち倒れて、唯泣くばかりであったと、先般亡くなられた故永尾芳枝女史の御言葉のごとくであったのであります。
その時誰かは判然せぬが、
「何時や」
と尋ねる声に応じて、増野正兵衛氏が、
「二時や」
と答えられたと言われています。それは正に稀世の聖教祖の御臨終の御時刻を、永遠に録する言葉であったのであります。

やがて一同は、真柱中山新治郎様を先に立てて、今の今まで御存生であらせられた、今は亡き御教祖の御休息所の八畳の間へと伺候したが、あまりの衝撃に、誰も彼もさしうつ向いたまま、暫しの間は一言の言葉を出す者もなかったと言われています。 正に呆然自失そのなすところを知らなかったと言いましょうか、唯あるものは涕泣鳴咽のみであったと言われています。 親侍した高弟の一人、清水与之助氏は、自らその時の心持ちを叙して次のごとくに、
「右のおつとめは、午後一時より始まり(中略)午後二時頃終わる。おつとめ仕舞になるのと、親様御身御引取りになるのと、たてあいになり、実に/\/\/\一同何とも/\/\言葉なし」
と述べられているのであります。
「どんなに圧迫干渉にあおうとも、御教祖様の居らるる以上は、どこまでも力強く、安心もし、堪え忍びしてきたのであるが、いまやその御教祖様に離れたので、何とも言えぬ淋しい、真に滅入るような心持ちで、何をどうしてよいのやら、途方に暮れた」
とは、初代管長様の後の御述懐であらせられる。実際この時、今は空しき御亡軀を目前にして、一同は何とも言葉なく、唯々涙するばかりでありましたが、しかし、
「いつまでもこうしておってはどうもならん。伊蔵さんに願うたら」
と、誰となく言い出られて、やがて一同は起ち上がって、なおも不時の干渉を慮られて、内蔵の二階へ上がり、飯降伊蔵様を通して神意を伺わるることとなったのであります。
席定まって真柱中山新治郎様は、落つる涙を打ち払われながら、一同を代表して、
「皆一様に願う心は、親様にまだ御身に温みがありますから、もう一度親様の御身上を、元の身体にして下され」
と、まず御願いあらせられました。 (中略)
しかしながら親神様は言下に、
「そらいかん。何を言うぞ」
と御叱りあって、以下のごとくおさしづ下されたのであります。

「さあ/\ろっくの地にする。みな/\揃うたか/\。 よう聞き分け。これまでに言うたこと、じつのはこへ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛いゆえ、親の命を25年、さきの命を縮めて、今から助けするのやで。しっかり見ていよ。今までと、これからさきと、しっかり見ていよ。扉開いてろっくの地にしようか。扉閉めてろっくの地に。扉開いてろっくの地にしてくれと言うたやないか。思うようにしてやった。さあこれまで子供にやりたいものもあった。なれどもようやらなんだ。又々これからさき、だん/\に理が渡そう。 よう聞いて置け」

『みちのとも』立教99年6月号 -御教祖ご臨終のおさしづの考察- 白藤義治郎

明治二十年陰暦正月二十六日の午後二時に至る直前とその直後のおそばの方々やお屋敷の様子がリアルに伝わってきます。

「いつまでもこうしておってはどうもならん。伊蔵さんに願うたら」

「皆一様に願う心は、親様にまだ御身に温みがありますから、もう一度親様の御身上を、元の身体にして下され」

との、おやさまの蘇生を願うそばな者の悲痛な叫びに対して、

「そらいかん。何を言うぞ」

と、理に徹した神様の叱咤のお言葉が下ります。
おやさまの亡骸なきがらを前にした、神と子による「理と情」のせめぎ合いに見る厳しさと、切ないまでの美しさが胸に迫ります。

二次資料をもとに書きましたので、これ以上の私見は差し控えます。
以上、明後日の春季大祭を前に、駆け足で記しました。

ではまたいずれ。

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