見出し画像

「三年千日」への小さな疑問

こんにちは。Beです。
ご承知の通り、本年10月26日の秋季大祭後に『諭達』第四号が発布されました。真柱が身上を押して皆の前に立たれ、ご自身で発表されたことは記憶に新しいところです。
今回は「三年千日」の年祭活動が始まるこの機会に、少し「ひながた」と「三年千日」について考えてみたいを思います。
あ。最初に言っておきますが、結構長文だし、おさしづを引用してるから頭が痛くなるかもです。途中で嫌になったら、最後のほうだけ読んでねwww

「ひながた」をたどるとは

さて、真柱は『諭達』第四号の中で

ひながたの道を通らねばひながた要らん。
(略)
ひながたの道より道が無いで。 (明治二十二年十一月七日)と仰せられている。 
教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。

『諭達』第四号

と述べられました。
およそ天理教を信仰する者にとって、教祖のひながたの道をたどるということは「それさえしておけば間違いない」という信仰の要諦であり、王道と考えられていますよね。
でも、そもそも「教祖五十年のひながた」とは何ぞや?と問われ、その答えを『天理教教典』や『稿本天理教教祖伝』に求める時、
(※参考までに「天理教研究所」さんのWEBサイに『天理教教典』の全文が掲載されています)
壮絶ともいえるその道中を歩むなど、生身の人間には不可能だとしか思えません。私など三日、いや一日も保たないですよ。
恐らく皆さんも同様の感想を持たれると思います。(「いや、私ならできる!」という方がいらっしゃったらお詫びします。)
そこで『諭達』第四号では「教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し・・・」という表現をもって、「ひながた」は完コピして踏襲するものではなく、あくまでも目標であることをあらためて教えてくださっているのだと思います。
「ひながたをたどる」などと、軽はずみに言の葉にのせるべきではないと、私は思っています。
では、現実問題としてどのような歩み方をすればいいのか?
そこを明らかにするため、来年5月末までに「全教会一斉巡教」がおこなわれると理解していますが、それに先立つ形で11月10日には本部在籍者を対象に本部巡教「親里会場」が設けられ、そこで松村義司本部員(高安大教会長)が以下のように語りました。

「ひながたをたどる」ということについて、教祖が50年を通して伝えてくだされた教えの根幹部分は、親神様のご守護を感じ取って報恩の念を持って通る「ご恩報じ」、親神様にもたれて通りきる「神一条」、人たすけをする「たすけ一条」が肝心であると強調。年祭活動では、この部分を見つめ直し、「ひながたの道を自分自身の道として、三年千日の間に、しっかり神一条、たすけ一条に通る心を定めたい」と語った。
 続いて、年祭活動の具体的な歩み方にふれ、この旬に一人でも多くの人がひのきしん、にをいがけ、おたすけの実行ができるようぼくへと成人するご守護が頂けるように、私たちお互いが率先してされなる実践に励むことが大切と指摘。その積み重ねによって、教祖の付けられたこの道が、揺るぎない、確かな道として将来に続いていくと話した。

『天理時報』11月23日号

『諭達』第四号に記された三年千日の歩み方の大意は、
・いかなる困難に臨んでも、親神様の御守護に感謝して生きる。
・現れてくる事象はすべてが成人に向かうための親神様の計らいであると受け止める。
・身上事情に苦しむ人に寄り添うこと。
・ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂けると信じ、もたれきること。

だと思いますので、松村本部員の講話は『諭達』のツボを押さえているといえますね。(何故に上から目線www)

『諭達』と「三年千日」

過去の『諭達』を調べて見ると、昭和41年につとめられた教祖八十年祭については、年祭の5年前にあたる昭和36年4月26日に二代真柱によって発布されていますが、そこでは三年千日については何ら言及されていません。それ以前の『諭達』にも「三年千日」の記述は無いと承知しております。(ちょっと自信ありませんがw)
本稿のテーマとは離れますが、二代真柱によるこの『諭達』第二号はとても格調高く、文章としても優れていると感じましたので、参考までにご紹介いたします。

諭達第二号
本年一月二十六日、教祖年祭にゆかりある春季大祭の日を以て公示したように、来る昭和四十一年に教祖八十年祭を執り行うにあたり、思うところを述べて教内全般の心定めに資したい。
教祖は一れつの子供可愛いそれゆえに、扉を開いて世界をろくぢにふみならそうとの深い思召しから、定命を縮めて現身をおかくしなされたが、地上の月日におわす御理は、今もなお存命同様子供の成人をおみまもりくだされている。この存命の教祖の御心に応え、我々子供たちの心の成人を御照覧いただいて、おいさみいただくことが教祖年祭を執り行う根本の意義である。
子供の成人こそは、教祖が定命を縮めてまでも御心におかけくだされたところであるから、それが教祖にお応えする子供たちの、何よりもの心尽くしであることはいうまでもない。翻ってまた同時に、地上の月日にてあらせられる教祖に守られて、銘々子供たちが陽氣ぐらしのよろこびをお恵みいただく道でもある。
さきに復元の道をたずね、神一条の精神、ひのきしんの徹底、一手一つの和の三信條をかかげて陽氣ぐらしへの道を求め、また、朝起き、正直、はたらきの教えの実行によって、身近かな日々の生活から明るくしてゆくよう説き奨めた。なお進んでは、教祖のひながたをたどって信仰生活の徹底を期し、さらに、一れつのたすけを急込み給う親神のよふぼくたるものの指針としては、内にたんのうの心を治め、外に向かっては親切の真心を尽すようさとしてきた。これ偏に、仰いでは親神、教祖に応えて、いよいよ厚い御守護を祈り、かえりみては心の道しるべとして、あい互いに心の成人を期したいとの願いに外ならない。
されば、八十年祭執行の期日を定め、日々に養いきたつた成人の心を結集して、いよいよ年祭準備の勤めに励みつつ、さらに一段の成人をお見せいただくべき時を迎えた今日、先ず、ここに陳べるところを胸のうちより思案して、成人への楽しみに勇みつつ、年祭の御用にそれぞれの真心を伏せこむ心定めが肝要である。
みかぐら歌に
ふしぎなふしんをするなれど
たれにたのみハかけんでな
みなだん々々とせかいから
よりきたことならでけてくる
また
むりにでやうといふでない
こ々ろさだめのつくまでハ
と仰せられている。
信仰のよろこびから、止むにやまれぬ熱情を以て自ら進んで勤めきるのが、親神の御用にあずかるものの態度であり、また親神のうけ給うところである。あい互いに成人への希望に燃えて、日々楽しくうれしく尽くはこんでこそ、一粒萬倍の理となって、たのもしい成人をお見せいただける。これが天理である。
およそ人生の道すがらには、事にあたりものにふれて、時に難渋をかこち或は失望不安におそわれる場合が、ないとはいえない。しかし、それは我が身思案による心の影とさとり、我欲を忘れて親神にもたれ、教祖ひながたの道をたどる心になる時、難儀苦労は転じて楽しみに、失望不安は希望に切り替えていただける。かかる年限の積み重ねこそ成人への道である。
年頭にあたり、「人間思案による自己依存を捨て、自己を忘れ、もっぱら親神様にすがって歩ませていただく心になったとき、自他ともに無理だ、無理だと思われた旅路を、つつがなく最後までおつれいただけた」と語ったが、この体験は私にとりまことに有難いことであったと感謝している。
思うに「神がこの屋敷へ天下って七十五年たてば、日本あらあらすます。それから先は、世界隅から隅まで天理王命の名を流す」とのお言葉は、「はじめた理とをさまりた理と、理は一つである」とのおさしづと思い合わせ、子供の成人をおうながしくだされる、一つのふしをお示しになったものとさとる時、子供の成人をおもい現身をおかくしになった、明治二十年から数えて七十五年目に相当する今年、昭和三十六年は、世界の事情によって已むなく一時歩みをゆるめていた海外への伝道を再び活発におし進めて、一れつのたすけを急き込み給う思召に応えるべき仕切りの時旬である。
あらためていうまでもなく、よふぼく本来の使命は、親神の思召しを体して、日本国中はもとより、世界隅から隅まで、一れつの子供にだめの教えを伝えて、平和を希求しながら、対立の冷たさに不安をいだく世界のすがたが、陽氣ぐらしの世のさまにたちかわるよう御守護をいただくにある。殊に親神が常に先回りして、おはたらきくだされていることを思えば、なんの不安もない。
よろしく、よふぼくたるものは小成に心をゆるさず、いよいよ世界たすけの重い使命を自覚し、世界隅から隅までの思召しにそうべき大きい心を定めるのが、この時旬に処する心構えである。もうこれだけ道ひろまった、もう大丈夫と思う一日の心のゆるみが、千日のおくれとなる。まだまだ十分やない、一寸のかかりという事情、これからという心を定めて勤めきってこそ、世界たすけのこうのうをお見せ頂ける。「十分のぼればくだるより外ないほどに」とお戒めを心胆に銘じ、現状にあまんじることなく、広い世界の隅々までも天理王命の神名がゆきわたるべき将来の往還を楽しみに、遠大の希望を親神に託して、この年祭の時旬の勤めをはたしたいと切に念願する。
願わくば、土地ところの名称のしんとしてゆるされている教会長は、「そのものから心わかってくれ」との切なる親の御思いを片時も忘れず、ややもすれば陥りやすい人間一條の道におされ、世界の事情に心を奪われて生涯の道をあやまたぬよう、先ず自ら真の道の理を心におさめ身につけて不動の信念を固め、常に反省して足らぬところはこれを補い、親神よりゆだねられているそれぞれの教会を、陽氣ぐらしの雛型たらしめる重責を自覚して、たすけ一條の道の先達となり、教人は道の理に順い、よふぼくは心を合わせてその任を全うし、信者は互いにたすけあい、皆一手一つに心を堅く結びつつ、勇んでたのもしい道の理を人々に伝え、あれでこそ真の道であると、世界一れつにうつる日を心から待望する。
昭和三十六年四月二十六日 
真柱 中山正善

昭和36年『諭達』第二号

いかがでしょう?
唸りましたよ私は。胸に響く文章です。奮い立たずにはおられない名文です。こんな私でも感動するのですから、当時の先輩方は心の底から勇み立ったであろうと想像します。
二代真柱は教内の一部では毀誉褒貶に相半ばする方ではありますが、人の心に届く言葉を発することのできるを稀代のカリスマであったと、私は思っています。
ちなみに、この『諭達』第二号の中では「三年千日」という言葉は使われていませんが、先輩に聞いたところによると「三年千日」を仕切って歩むということ自体は、八十年祭前の活動として提唱されていたということでした。

『諭達』の中での「三年千日」という言葉の初出は教祖九十年祭の三年前に発布された三代真柱による『諭達』ではないかと思います・・・多分。

諭達第二号
教祖九十年祭を迎えるに当たり、思うところを述べて、三年千日の門出の心定めに資したい。
(中略)
成って来る理に耳をすまし、教祖の面影を求めて身近に教祖を拝し、三年千日、ひながたの道を明るく歩み抜かせていただきたい・・・

『諭達』第二号
昭和48年1月26日 中山善衛

しかし九十年祭以降、意外なことに百年祭前、百十年祭前、百二十年祭前に発布された『諭達』に「三年千日の言葉は用いられておらず、百三十年祭と今回の百四十年祭の『諭達』で再び登場します。
まあ『諭達』に「三年千日」という文言が使われようが使われまいが、「三年千日」の年祭活動は当たり前に繰り返されていますので、もはや教内の共通認識なのでしょう。

さて、ここからが本題です。

おさしづと「三年千日」

教祖年祭前の三年千日。その根拠として必ず部分的に引用されるおさしづがあります。
それが、以下に引用する明治二十二年十一月七日 午後十時四十分の刻限御話です。長文の上に難解ですので、太字部分だけを読んでいただければと思います。

さあ/\一寸話仕掛けるで/\。まあ、あちらもこちらも取り混ぜ/\て、一つの理を諭そう。もう/\急がしい/\。日々が急がしい/\。何でも彼でも、一つ見れば一つの理がある。聞けば一つの理がある。二つの理の道理の理を、治めてくれねばならん。難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん。これ分からんような事ではどうもならん。ひながたの道通れんような事ではどうもならん。長い事を通れと言えば、出けんが一つの理。世界道というは、どんな道あるやら分からん。世界の道は千筋、神の道は一条。世界の道は千筋、神の道には先の分からんような事をせいとは言わん。ひながたの道が通れんような事ではどうもならん。どんな者もこんな者も、案ぜる道が見え掛けてはどうもなろまい。一日二日経ったらと言うたら、どんな事やと思て居たやろ。ちゃんとしてやる道は見るも同じ事。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。十年あとの道は、どんな事を説いても、いか程説いても、そんな事は無い、何を言うやらと言うて居たのや。国々の者やない。そこからそこの者でも分からなんだ。なれど十年経ち、二十年経ち、口に言われん、筆に書き尽せん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道が無いで。何程急いたとて急いだとていかせんで。ひながたの道より道無いで。ひながたの道がどんな日もある。ひながたの道にはいろ/\ある。誠の道も蒔いた事がある。なれども、何年経てばこうという理が、外れてはあろうまい。世界には何を言うやら大工がと。日本一の大工や。何言うて居るやらと皆笑うて居た。十のものなら八つという。後二分の処放って了うは八分という。難しい。後二分というたら僅かや。まあ何年居てくれたら、内も結構や。なれどもどうも半端である。十年の間、八年の間の苦労は容易やない。なれども、まあ後二年は何でもない。八方明けたら明らかや。もう僅か、まあ三日の辛抱さえ仕遂げたら、誰に遠慮は無い。皆貴方々々と言う。ひながたの道が出してある。ひながたそばにある。めん/\もたった三日の辛抱すればひながたの道が。以前々々は、我が/\のようにして通りて来たのや。三日の日は越せんという理はあるまい。どんな者でも、ひながた通りの道を通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ。まあたった三日や。三日は分かろうまい。今と言うたら、今の事のように思う。ひながたの道を通れば、僅か年限の間に、何と分からなんだなあ。前々は我が俺がと言うて居たなれども、どうもあんな者とも知らなんだと、世界から言うのは、まあたった三日の間や。三日の辛抱さえしたら、どんな道があるやら分からん。あちらも狭ばい、こちらも狭ばい。あちらも広め、こちらも広めに運ぶ。三日の辛抱したら、今の三つが、三日経てば何ぼに成るやら分かりゃせんで。一日々々の日が近寄る、何処から見ても出るも、ほんに見るも、ほんになあと言う日は、まあ三年の間や。三年経てば、偉い事に成るのやで。三年の道は直きや。そこで、難しい事せいとは言わん。古い型のひながた、見えてある事分からん。一年後というものは、大方成るかと思えばどんと行き、これではならんという処から、一寸道を開き掛けた。まあ/\世界から見れば往還。細道は通りよい、往還通り難くい。何を言うと思う。往還通り難くいという理聞き分けたら、三日の間や。なれども、これまで細い道を通り来た故、大き道に成るのやで。三年やそこらの事は、三日の日の事思えば直きや。三年辛抱すれば、落ちようと思うても落ちられん。たったそれだけの事が分からん。そこで皆んな一つ/\の理を寄せてくれるよう。僅か三年の間の事を、長う取るからどんな理も出る。たった三日の間や。三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。たった三日の間や。

『おさしづ』明治二十二年十一月七日 刻限御話

教祖の五年祭は明治24年3月6日から3月8日(陰暦正月26日から28日)につとめられました。つまり前掲のおさしづは五年祭の1年4ヶ月前に下ったものなのです。
三年前ではありません。なので、この刻限のさしづをもって、教祖年祭前の三年千日を仕切って歩むことの根拠とすることに以前から疑問を抱いておりました。
これ以外の『おさしづ』にも「三年千日」「三年」「千日」などの言葉が登場するものはいくつかあります。

明治二十三年五月二十三日
郡山分教会所に於て、婦人も教会設置に尽力を為し、女は御勤出来ぬかと力落すもあり、よって入社式に教会にて女勤御許しの願

さあ/\尋ねる処/\、余儀無き尋ねである。一つこれまで多く中、一度一つ、どんな一時分かる分からん中、一つの理に寄せたる処、今一時長らえて事情ならん。よう/\の道、前々一つの事情、何度々々の事情よう聞き分け。一つ始まる、一つ始め、一時一つぢば一つの理、それより世界どういう理も始め掛ける。折角丹精して勤めして楽しんで抑えど、どういうものである。何かの処、元ぢば一つよう/\日々の処、判然入り込む処、第一三年千日という日が切ってある。心治めくれるよう。よう/\日柄という、この事情聞き分けくれねばならん。

明治二十四年二月二十日(陰暦正月十二日)
本席身上御障りに付願

(略)
一年お陰、切り無しお陰。どちらの事情、所が変わったなあと、ほのか年々お陰。まあ/\何でも彼でも潰そう、取り払うと思えども、神一条の道は目に見えんものを払う。一寸払うても後へちゃんと理が坐ってある。これまで案じる者が多てならなんだ。中には、どうでもこうでも今一時の心を定められん。どうでもこうでも細々の道を運んだか、よく/\思うてみよ。僅かの間、それから世界びっしゃり潰してから、今の事情三年千日とも諭してある。もう僅かの日や。何でも彼でも及ぼさにゃならん。又十の内三点四点通る処の道、深く聞けば深く諭そう。
(略)

『おさしづ』

などです。その他のおさしづも調べましたが、「三年千日」「千日三年」「三年」「千日」「三日の日」などの文言が含まれるおさしづの中に、それが年祭前の三年千日を示すものは見つけることができませんでした。
ただ、目を引くと言うか、ちょっと気になるおさしづがありました。
これは前述した年祭前の三年千日の根拠として引用される明治22年11月7日の刻限のさしづと日付が近接していることから、何らかの関連があるような気がしております。
以下に明治27年11月17日のおさしづを引用します。

明治二十七年十一月十七日夜 
昼のおさしづにより夜深教長外五名にて御願
(略)
これ大望の建家、何のため、一度戻りてすっ込んで居たは、何のため。一つの辛抱と言う。堪忍運んだこそ、理治まりたる。治まらねば、姿も無くば何もあらせん。さあ/\事情席という、席一条の理になりたる。答というは、分からねば分からん。長い事分からせん。世界盛大、天理教盛大、たゞ一つ元出してみよ。この建家席のまゝにならせん。席のまゝにならんというは、どういう事。皆それ/\及び付けたら分かる。建家一軒でよいと言う。出してある。分かりそうなもの。ぐるり囲うて楽しまし、どうも反古にさせようまい。こら末代の楽しみにせにゃならん。一つ答えてみるがよい。道の無い事は答える事出けやせん。席の物であると思えば答えるがよし、席の物でなしと思えば答えるに及ばん。建家何処へもやるやなし、持って行くやなし、末代同じ所にあるのや。結構や/\。人間一代に出世は分からんものやなあ。これは天のあたゑと取らにゃならん。何と思てるか/\。あちらへ立ち還える、こちらへ立ち還える。どういう事に取りてるか、どういう事に思てるぞ。

この建家を本席の名前に替える事願
さあ/\名前を付けて貰いたい事はない。名前はどうでもよい。席の事情、席の物で、一代の物やない。こうして後の伝え/\、後へ結んだる。あんな心にどういうものでなりた。口説き分からん。あら/\話すれど分からん。建家席のもの、後、席建家と定めてくれ。こんな物は何でもない。西の宅どうしたもの。子供三人伏せ込んだる。ほんの言葉変わるだけで治めてくれにゃなろまい。そこで分かりて来る。住家もう一軒建てゝくれ。名前は要らせん。心変わりたら、何にもならん。
道具々々と言うて皆褒める。道具は皆並べてある。道具は誰の道具でもない。心定まりたら皆我がもの。棟分かれたる。あれでこそと言う。一名こうと言う事結構なもの。どれだけのこうのうと思てはならん。小さい事思てはならん。年限だん/\重なれば、八町四方に成る事分からん。この道誰に大儀してくれと言うたでなし、どうしてくれと頼んだでなし、誰に賛成してくれと言うたて出けやせん。皆あたゑ無しに出けやせん。あちら眺めば兄弟、こちら眺めば兄弟。皆心あれば皆治まりて来る。
さあ/\分かりたら分かりたと一つ答え。会議の上やと言うや、会議の上と答えてくれ。談示ばかりありゃせん。皆寄り集まりてのこの道、この道は最初怖わい道恐ろしい道、誰も寄り付く者無し。それより一つ/\洗い切り、三年千日の辛抱、三年辛抱の道通れば、誰に遠慮気兼は無い。三年千日どころやあるまい。皆分かりある。皆それ/\何処へ行たとて行くとて、案じ/\出る。出るは皆何で都合よう行たる。前に印打ちてある。三年の理を見よ。印打ちて分かりてある。書き落ちありてはなろうまい。書き落ちなりてなろうまい。さあ/\分かりたら分かりたと一つ答え。会議の上やと言うや、会議の上と答えてくれ。談示ばかりありゃせん。皆寄り集まりてのこの道、この道は最初怖わい道恐ろしい道、誰も寄り付く者無し。それより一つ/\洗い切り、三年千日の辛抱、三年辛抱の道通れば、誰に遠慮気兼は無い。三年千日どころやあるまい。
(略)

『おさしづ』

このおさしづは、明治26年12月に竣工し、本席が移り住んだ「本席御用場」もしくは、永尾家宅となった従来の本席宅に関わるおさしづと思われますが、本部の重鎮たちが本席に叱責されており、その言葉に何とも生々しい印象を受けます。
また「三年千日」「三年」という言葉が、明治27年11月7日のおさしづ同様、頻繁に使用されているのと、元は大工であった本席を周囲がどう見ていたかについて言及されているのが特徴的です。同年11月17日のおさしづとの関連がある気がしてなりません。
的外れな解釈かも知れませんが、私は明治27年11月7日のおさしづも、明治27年11月17日のおさしづも、本席(神の意思の取次人)という理の上での立場や、その言葉を重く受け取ることの出来ない周囲の者への叱責のさしづ、という見方もできるのでは?と思っております。
残念なことですが、本席が「元大工」ということで、一部の重鎮たちから軽んじられていた時期があったことを想起させる文章は様々な文献にも残されています。
いずれにしても、『おさしづ』に見る「三年千日」が、教祖年祭前の3年間を仕切って通ることを示唆しているとは私には思えないのです。

ここまで読んでいただいた心優しい読者の皆さんの梯子を外すようで申し訳ないのですが、ここで『おさしづ』について元も子もないことを言ってしまいます。
増野正兵衛が梅谷四郎兵衛に送った手紙にこんな文章があります。

「過般御依頼ニ相成侯前川様一件、今朝、前川様はじめ桝井氏、拙者三名立合之上、神様へ御伺申上候処、別紙の通り御差図相成候。御勘考奉願上候。何分御咄早くて書取も十中八分通書落し有之候間、左様御承引被成下度・・・」 

『梅谷文書』

明治23年6月29日に書かれた、前川家について伺った時の『おさしづ』についてのものです。
「前川さんと桝井さんと私(増野)さんが立ち合って聞いたが、本席の言葉が早口で、八割方書き落としてしまった」と言っています。
やはり筆に墨をつけて待機していても書き漏らすことが多かったようです。

また高野友治先生の『教祖余話』に

白藤義治郎氏から聞いた話では、教祖おかくれのときのお言葉の書き取りは、梶本松治郎がやったといわれた。はじめのものは、ところどころ、心覚えのようなものだった。それをあとで、思いおこして、書き直されたもののようであった、とのことであった。

『教祖余話』高野友治著

と記述されているように、『おさしづ』に神様の言葉以外の要素が含まれている可能性を否定できません。早口な本席の言葉を速記したり、後から記憶を頼りに書き足した部分に、その人間の思い込みや勘違い、あるいはバイアスのかかった思考が混入していないと断言できるでしょうか。
かといって私は『おさしづ』を否定するつもりなどありませんし、歴とした『三原典』の一つとして、その地位は忽せにできぬものとも思っております。
ただ、明治22年11月7日の『刻限さしづ』を年祭に向かう「錦の御旗」の如く振りかざし、毎回当たり前のように三年千日の年祭活動を繰り返すことに首を傾げているのです。

信仰にキャンペーン期間は必要か

個人的には『おさしづ』の中の「三年千日」という言葉は、年祭前の3年間を言うのではなく、「信仰する中で、通算3年を精一杯通る」くらいの気持ちで信仰しなさい。と教えられているような気がしております。
私は信仰に「増収・増員キャンペーン」のような期間限定の活動は馴染まないと思っています。
もちろん、「三年千日」を仕切って頑張ろうという方を批難するつもりはありませんし、そういう方には敬意を表します。
でも、頑張れない方も多いでしょう。それでいいんです。そんなに頑張らなくてもいいじゃないですか。
「信仰」は人間の日常に寄り添うものなのではないでしょうか。何気ない日々の暮らしの中で実践していくものであり、独りよがりの一旦馬力で頑張るものではないと私は思っています。
以前に
『みちのとも』6月号を読んで -数値化されないものの価値と陽気ぐらし-
でも書きましたが、陽気ぐらし世界は悠久の彼方に存在する世界ではありません。いつか訪れるであろう世界などではなく、私たちの日常にそっと潜んでいるものなんじゃないでしょうか。それを見つけ出そうとすることで、私たちはより良く生きられるんじゃないですかね。
陽気ぐらしは数値化されないものの中にあります。
教団からはコロナ禍によってお道の活動が制限を受けていることを、我々ようぼくの至らなさに結びつける発言がありますが、そうではなく現状与えられている姿こそが「成ってくるのが天の理」であり「心通りの守護」の結果なのではないでしょうか。
私たちは今、過去の年祭同様に眦を決して遮二無二走ろうとするのではなく、立ち止まって考えることを神様から教えられているような気がしています。
毎回の年祭後にくる御供、おさづけ拝戴者数、行事への動員数の減少。あるいは年祭のたびに起きる大きな事情や事件を見れば、それが神様からのメッセージであると考えることは決して的外れではないと思うのですが・・・

長文でまとまりのない文章になってしまいましたが、意のあるところを汲んでいただければ幸いです。
ではまたいずれ。


Articles list(記事一覧)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?