こんにちは。Beです。
ご承知の通り、本年10月26日の秋季大祭後に『諭達』第四号が発布されました。真柱が身上を押して皆の前に立たれ、ご自身で発表されたことは記憶に新しいところです。
今回は「三年千日」の年祭活動が始まるこの機会に、少し「ひながた」と「三年千日」について考えてみたいを思います。
あ。最初に言っておきますが、結構長文だし、おさしづを引用してるから頭が痛くなるかもです。途中で嫌になったら、最後のほうだけ読んでねwww
「ひながた」をたどるとは
さて、真柱は『諭達』第四号の中で
と述べられました。
およそ天理教を信仰する者にとって、教祖のひながたの道をたどるということは「それさえしておけば間違いない」という信仰の要諦であり、王道と考えられていますよね。
でも、そもそも「教祖五十年のひながた」とは何ぞや?と問われ、その答えを『天理教教典』や『稿本天理教教祖伝』に求める時、
(※参考までに「天理教研究所」さんのWEBサイトに『天理教教典』の全文が掲載されています)
壮絶ともいえるその道中を歩むなど、生身の人間には不可能だとしか思えません。私など三日、いや一日も保たないですよ。
恐らく皆さんも同様の感想を持たれると思います。(「いや、私ならできる!」という方がいらっしゃったらお詫びします。)
そこで『諭達』第四号では「教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し・・・」という表現をもって、「ひながた」は完コピして踏襲するものではなく、あくまでも目標であることをあらためて教えてくださっているのだと思います。
「ひながたをたどる」などと、軽はずみに言の葉にのせるべきではないと、私は思っています。
では、現実問題としてどのような歩み方をすればいいのか?
そこを明らかにするため、来年5月末までに「全教会一斉巡教」がおこなわれると理解していますが、それに先立つ形で11月10日には本部在籍者を対象に本部巡教「親里会場」が設けられ、そこで松村義司本部員(高安大教会長)が以下のように語りました。
『諭達』第四号に記された三年千日の歩み方の大意は、
・いかなる困難に臨んでも、親神様の御守護に感謝して生きる。
・現れてくる事象はすべてが成人に向かうための親神様の計らいであると受け止める。
・身上事情に苦しむ人に寄り添うこと。
・ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂けると信じ、もたれきること。
だと思いますので、松村本部員の講話は『諭達』のツボを押さえているといえますね。(何故に上から目線www)
『諭達』と「三年千日」
過去の『諭達』を調べて見ると、昭和41年につとめられた教祖八十年祭については、年祭の5年前にあたる昭和36年4月26日に二代真柱によって発布されていますが、そこでは三年千日については何ら言及されていません。それ以前の『諭達』にも「三年千日」の記述は無いと承知しております。(ちょっと自信ありませんがw)
本稿のテーマとは離れますが、二代真柱によるこの『諭達』第二号はとても格調高く、文章としても優れていると感じましたので、参考までにご紹介いたします。
いかがでしょう?
唸りましたよ私は。胸に響く文章です。奮い立たずにはおられない名文です。こんな私でも感動するのですから、当時の先輩方は心の底から勇み立ったであろうと想像します。
二代真柱は教内の一部では毀誉褒貶に相半ばする方ではありますが、人の心に届く言葉を発することのできるを稀代のカリスマであったと、私は思っています。
ちなみに、この『諭達』第二号の中では「三年千日」という言葉は使われていませんが、先輩に聞いたところによると「三年千日」を仕切って歩むということ自体は、八十年祭前の活動として提唱されていたということでした。
『諭達』の中での「三年千日」という言葉の初出は教祖九十年祭の三年前に発布された三代真柱による『諭達』ではないかと思います・・・多分。
しかし九十年祭以降、意外なことに百年祭前、百十年祭前、百二十年祭前に発布された『諭達』に「三年千日の言葉は用いられておらず、百三十年祭と今回の百四十年祭の『諭達』で再び登場します。
まあ『諭達』に「三年千日」という文言が使われようが使われまいが、「三年千日」の年祭活動は当たり前に繰り返されていますので、もはや教内の共通認識なのでしょう。
さて、ここからが本題です。
おさしづと「三年千日」
教祖年祭前の三年千日。その根拠として必ず部分的に引用されるおさしづがあります。
それが、以下に引用する明治二十二年十一月七日 午後十時四十分の刻限御話です。長文の上に難解ですので、太字部分だけを読んでいただければと思います。
教祖の五年祭は明治24年3月6日から3月8日(陰暦正月26日から28日)につとめられました。つまり前掲のおさしづは五年祭の1年4ヶ月前に下ったものなのです。
三年前ではありません。なので、この刻限のさしづをもって、教祖年祭前の三年千日を仕切って歩むことの根拠とすることに以前から疑問を抱いておりました。
これ以外の『おさしづ』にも「三年千日」「三年」「千日」などの言葉が登場するものはいくつかあります。
などです。その他のおさしづも調べましたが、「三年千日」「千日三年」「三年」「千日」「三日の日」などの文言が含まれるおさしづの中に、それが年祭前の三年千日を示すものは見つけることができませんでした。
ただ、目を引くと言うか、ちょっと気になるおさしづがありました。
これは前述した年祭前の三年千日の根拠として引用される明治22年11月7日の刻限のさしづと日付が近接していることから、何らかの関連があるような気がしております。
以下に明治27年11月17日のおさしづを引用します。
このおさしづは、明治26年12月に竣工し、本席が移り住んだ「本席御用場」もしくは、永尾家宅となった従来の本席宅に関わるおさしづと思われますが、本部の重鎮たちが本席に叱責されており、その言葉に何とも生々しい印象を受けます。
また「三年千日」「三年」という言葉が、明治27年11月7日のおさしづ同様、頻繁に使用されているのと、元は大工であった本席を周囲がどう見ていたかについて言及されているのが特徴的です。同年11月17日のおさしづとの関連がある気がしてなりません。
的外れな解釈かも知れませんが、私は明治27年11月7日のおさしづも、明治27年11月17日のおさしづも、本席(神の意思の取次人)という理の上での立場や、その言葉を重く受け取ることの出来ない周囲の者への叱責のさしづ、という見方もできるのでは?と思っております。
残念なことですが、本席が「元大工」ということで、一部の重鎮たちから軽んじられていた時期があったことを想起させる文章は様々な文献にも残されています。
いずれにしても、『おさしづ』に見る「三年千日」が、教祖年祭前の3年間を仕切って通ることを示唆しているとは私には思えないのです。
ここまで読んでいただいた心優しい読者の皆さんの梯子を外すようで申し訳ないのですが、ここで『おさしづ』について元も子もないことを言ってしまいます。
増野正兵衛が梅谷四郎兵衛に送った手紙にこんな文章があります。
明治23年6月29日に書かれた、前川家について伺った時の『おさしづ』についてのものです。
「前川さんと桝井さんと私(増野)さんが立ち合って聞いたが、本席の言葉が早口で、八割方書き落としてしまった」と言っています。
やはり筆に墨をつけて待機していても書き漏らすことが多かったようです。
また高野友治先生の『教祖余話』に
と記述されているように、『おさしづ』に神様の言葉以外の要素が含まれている可能性を否定できません。早口な本席の言葉を速記したり、後から記憶を頼りに書き足した部分に、その人間の思い込みや勘違い、あるいはバイアスのかかった思考が混入していないと断言できるでしょうか。
かといって私は『おさしづ』を否定するつもりなどありませんし、歴とした『三原典』の一つとして、その地位は忽せにできぬものとも思っております。
ただ、明治22年11月7日の『刻限さしづ』を年祭に向かう「錦の御旗」の如く振りかざし、毎回当たり前のように三年千日の年祭活動を繰り返すことに首を傾げているのです。
信仰にキャンペーン期間は必要か
個人的には『おさしづ』の中の「三年千日」という言葉は、年祭前の3年間を言うのではなく、「信仰する中で、通算3年を精一杯通る」くらいの気持ちで信仰しなさい。と教えられているような気がしております。
私は信仰に「増収・増員キャンペーン」のような期間限定の活動は馴染まないと思っています。
もちろん、「三年千日」を仕切って頑張ろうという方を批難するつもりはありませんし、そういう方には敬意を表します。
でも、頑張れない方も多いでしょう。それでいいんです。そんなに頑張らなくてもいいじゃないですか。
「信仰」は人間の日常に寄り添うものなのではないでしょうか。何気ない日々の暮らしの中で実践していくものであり、独りよがりの一旦馬力で頑張るものではないと私は思っています。
以前に
『みちのとも』6月号を読んで -数値化されないものの価値と陽気ぐらし-
でも書きましたが、陽気ぐらし世界は悠久の彼方に存在する世界ではありません。いつか訪れるであろう世界などではなく、私たちの日常にそっと潜んでいるものなんじゃないでしょうか。それを見つけ出そうとすることで、私たちはより良く生きられるんじゃないですかね。
陽気ぐらしは数値化されないものの中にあります。
教団からはコロナ禍によってお道の活動が制限を受けていることを、我々ようぼくの至らなさに結びつける発言がありますが、そうではなく現状与えられている姿こそが「成ってくるのが天の理」であり「心通りの守護」の結果なのではないでしょうか。
私たちは今、過去の年祭同様に眦を決して遮二無二走ろうとするのではなく、立ち止まって考えることを神様から教えられているような気がしています。
毎回の年祭後にくる御供、おさづけ拝戴者数、行事への動員数の減少。あるいは年祭のたびに起きる大きな事情や事件を見れば、それが神様からのメッセージであると考えることは決して的外れではないと思うのですが・・・
長文でまとまりのない文章になってしまいましたが、意のあるところを汲んでいただければ幸いです。
ではまたいずれ。