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真夏の青空のような人

朝からうだるような暑さだった。
昼イチで会長(教会ではなく株式会社の創業者にして代表取締役会長。現在75歳。現役バリバリだが近々引退することが決まっている)と一緒に取引先へ納品に出向いていたのだが、その部品を一旦持ち帰ることになった。乗っていった4tトラックに再度その重い部品を積み込まねばならない。
社を出る時に五人で積み込んだ荷を、今度は二人で積むことになる。
私も会長も若かりし頃はガテン系の力自慢であったのだが、今ではすっかりデスクワークの人と化してしまっているので、少し重い荷物を運んだりすると、すぐに息が上がってしまう。おまけにこの暑さだ。吸い込む空気は熱風のようで、たちまち滝のような汗が流れ、めまいがしてきた。
まったく情けない男に成り下がってしまったものだ。「忸怩たる思い」とはこういう時に使う言葉なのだろ。
ちなみに「忸」も「怩」も「はじる」という意味を持つので、同じ意味を持つ異なる漢字を重ねることで「恥ずかしさ」をこれでもか、というくらいに強調してるんだよね。などと、どうでもいいことを考えていたら、ますます朦朧としてきて、ヘタリ込みそうになってしまった。

汗まみれの私たちの脇を、取引先の女性社員たちが汚いものでも見るかのような目をして通り過ぎる。
さもありなん。初老男性と本格的な老人が汗まみれでフラフラになりながら荷積みをしている姿など人様に見せられたものではない。ていうか、そんな目をするんじゃないよ、まったく。「惻隠の情」という言葉を知らんのかね、近頃の娘さんたちは。

ともあれ、私たちはなんとか積み込みを終えると、冷房の効いたトラックに争うようにして乗り込み、取引先を辞した。
会長は助手席で「暑い、暑い」と連発し、喘いでいる。
もちろんエアコンは最低温度に設定されているのだが、久しぶりの炎天下での肉体労働で火照った身体にはさほど効果がなかった。
トラックが走り出してからも、会長は疲労困憊の体で「暑い、暑い」と言い続けている。「暑い」と言い続けたところで涼しくなるわけでもないのだから、いい年をして辛抱の足りないヒトだ。などと思いつつ運転していると、会長が目ざとくコンビニを見つけ「あそこへ入れてくれ」と言った。
確かに水分補給をしなければ危険な状態ではあった。私はすぐさま車をコンビニの駐車場へ滑り込ませた。

車を降りた会長は、一目散に飲み物のコーナーへ向かい、ショーケースのガラス扉を開けるのももどかしく「コカコーラ」500mlを引ったくるようにして取り出した。私は隣の扉から「ポカリスエット」500mlを選び、レジに向かおうとしたのだが、通路に仁王立ちになる会長を見てその場で固まってしまった。
会長はレジ前の通路で腰に手を当て、コーラをゴクゴクと美味そうに飲んでいた。75歳になる会長はその年齢をものともせず、500mlの炭酸飲料を一気に飲み干したのだ。恐るべき75才!立派だ!これぞ男だ!
いやまて。多分そういう問題ではない。
レジで支払を済ます前に、商品を飲み食いしていいのだろうか?
それって、陳列棚のカラアゲ弁当を完食した後に、空の器を持ってレジへいくのと同じではないのだろうか。
幾人かの客が、そっとコチラを伺っているのが分かった。

「会長…」

私は呆然としつつ力ない声をかけた。
さすがに付き合いの長い会長だけあって、私が言わんとしていることはお見通しだった。

「ええやん、カネ払うんやし。Beちゃんも、はよ飲め」

と言いつつ、会長は再び飲料コーナーのショーケースに戻って、今度は私と同じ「ポカリスエット」をチョイスした。そしてまたフタを開けるとその場でゴクゴクと飲みだした。そして

「喉かわいとるやろ。金払うんやからエエねん。かまへんから飲め飲め」

と、創業者特有の強引さと気迫で私に迫った。
その時私は、まさか

「夫子之道、忠恕而已矣」(夫子(ふうし)の道は、忠恕のみ)

『論語』里仁編

と論語に記された「忠恕」の教えを思い出したわけではないし、浅田次郎が『壬生義士伝』で描いた吉村貫一郎の

新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお務め申す。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者の義のために戦ばせねばなり申さん。いざ、お相手いたす。

浅田次郎『壬生義士伝』

「義」を思い出したわけでもないが、思わずポカリスエットのフタを開けて二口ほど飲んでしまった。
それはおそらく

「この人だけを“非常識でアホな老人”にしてしまってはいけない」

という意識が働いたのだろう。それはそれで私が大切にしている「忠恕」であり「義」には違いないのかも知れない。
思えば、長年この型破りで傍若無人な創業者の傍にいた私は、常に沈着冷静であることを求められてきた。そんな私があっさりと無作法を甘受したのは、やはり会長の人徳のなせる業なのだろう。とはいえ、常識の呪縛にがんじがらめにされている私が飲めたのは、せいぜい二口だった。
完飲と二口。これが会長と私の、人としての器の違いなのだ。

その後、私たちはレジに向かった。
レジのカウンターに二口分だけ減っているポカリスエトが1本と、空のコーラのボトルが1本、同じく空のポカリスエットが1本置かれた。
アジア系の若い女性店員は明らかに引いていた。
恐らく接客マニユアルにも載っていないであろう不躾で異様な客に、一刻も早く店から出て行って欲しかったのだと思う。
そそくさと3本のボトルを袋に入れると、無言で会長が差し出した硬貨を受け取った。
差し出されたレジ袋を指さし

「それはいらん」

と、会長は何故か厳かに言った。店員は弾かれたようにレジ袋から空のボトルだけを取り出した。

「スミマセン」

と店員は会長に謝ったが、ほぼ同時に私も店員に向かって同じ言葉を発していた。
そして異国からやってきた健気な技能実習生のトラウマとならぬことを静かに祈った。

空調の効いた店内から外にでると、雪崩のような蝉時雨が背中を打ち、一気に汗が噴き出してきた。日は中天にある。
私の隣に立った会長が、下品でこれ以上もなく盛大なゲップを放った。

「美味かったなぁ、Beちゃん。二人で力仕事したんも久しぶりやな。20年ぶりくらいとちゃうか? 昔を思い出したわ」

会長が子供のような笑顔を見せている。

「もっとアホになってエエねんでBeちゃん。息子(社長)のこと、頼むで」

まったく、真夏の青空のような人だ。いや青空を際立たせる純白の入道雲なのかも知れない。
引退間近のこの人から、大切なことをまた一つ教わった。
青空と会長を見比べながら、なんだかとても嬉しくなってしまった。

おしまい。

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