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二代真柱の実証主義を超えて

■東京帝国大学宗教学の実証主義

中山正善(ナカヤマショウゼン)
明治38年(1905年)4月23日ー昭和42年(1967年)11月14日

言わずと知れた天理教の二代真柱です。
Wikipediaでは

天理教の教祖・中山みきの孫で初代真柱中山眞之亮の長男として生まれた。三島尋常小学校在学中の1914年(大正3年)12月31日に眞之亮が亡くなり、翌1915年1月21日に10歳9ヶ月で管長に就任した。しかしながら幼少であったため、山澤為造が管長職務摂行者として教務に当たった。

14歳で旧制天理中学校に入学、19歳のときに旧制大阪高等学校に入学、1925年(大正14年)4月、学生の身分ながら正式に天理教管長に就任、この年に後の天理大学となる天理外国語学校を設立し、自ら校長となっている。この関係で天理大学の創立記念日は、中山正善の誕生日の4月23日になっている。

翌年には東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に入学し、恩師の姉崎正治の指導の下で「伝道ニツイテ」を卒業論文として、1929年(昭和4年)春に卒業した。その後は天理教の海外布教に尽力し、また1948年(昭和23年)には天理教原典の「おふでさき」、「おさしづ」を、1949年(昭和24年)には「天理教教典」を刊行し、今日の天理教学の体系を確立した。著書は「ひとことはなし」等多数。1967年に没し、長男の中山善衞が3代真柱に就任した。(※太字は私Be+によるものです)

Wikipediaより

と記述されています。まさに今日の天理教教学の体系を作り上げたのは一にかかって二代真柱の功績であると、誰しもが認めるところでしょう。
Wikipediaにもあるように、二代真柱は東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科(※以後「東大」と記す)において姉崎正治博士[註1]の薫陶を受け、東大宗教学の伝統である実証主義を身につけて本部に帰ります。
ちなみに「実証主義」とは

公開性をもった対象を、価値中立的な観点から取り扱う」ことによって、「宗教を実証的に研究する」学問である。言いかえれば、「どの研究者にとっても、実証的な観察が可能な対象」こそが問題であって、「実証的な観察を超えた」ものは、宗教学の対象とならない。

岸本英夫『宗教学』P3

という立場(基本的理念)を言います。

■二代真柱中山正善の帰郷

二代真柱は大正14年(1925年)4月、学生の立場で(21歳)正式に天理教の管長に就任し、翌年に東大に入学。姉崎正治博士に師事します。
1929年(昭和4年)に卒業。
東大宗教学の実証主義をひっさげて本部(天理市・おぢば)に帰ります。
二代真柱が東大を卒業する以前、教団の思想的リーダの一人に29歳という異例の若さで天理教本部の本部員(最高幹部会・意思決定機関のメンバー)に登用された増野鼓雪がいました。しかし鼓雪は前年の昭和3年11月に39歳という若さで世を去っていました。
松本滋氏の小論に、

大正時代をリードした増野鼓雪が没したのは昭和3年で、その翌年、中山正善が大学を卒業したということは、実に象徴的な意味をもつ。鼓雪路線から正善路線への転換がかくして始まったのである。
聞く所によれば、正善真柱は鼓雪が好きでなかったらしい。鼓雪もまた真柱と肌の合わないものを感じていた。二人とも偉大な人物だっただけに、その葛藤も根が深かったようである。今その両者の対立を、思想のレベルで分析するならば、鼓雪が神秘主義的、霊性中心的であるのに対し、正善は実証主義的、理性中心的であったと言えよう。

松本滋「経験科学」としての宗教学の功罪 -天理教学との関連において-

という記述があります。
鼓雪の死と二代真柱の帰郷という、教団にとっての思想的な端境期を迎えたとも言えるその時、日本には軍靴の足音が近づいて来ていました。

昭和3年(1928年)
6月4日張作霖爆殺事件
昭和4年(1929年)
7月2日浜口雄幸内閣成立 日記
昭和5年(1930年)
1月11日金輸出解禁実施
1月21日 ロンドン海軍軍縮会議開会
4月 統帥権干犯問題起こる
10月1日ロンドン海軍軍縮条約を枢密院本会議で可決           11月14日浜口雄幸が東京駅で襲撃される
昭和6年(1931年)
9月18日柳条湖事件(満洲事変勃発)
昭和7年(1932年)
3月1日満洲国建国宣言
5月15日5.15事件

二代真柱の帰郷後、日本は満州事変、日中戦争、第二次世界大戦という苦難の時代を迎えます。
戦時体制を敷く国家は教団に対して様々な制約と要求を課し、宗教団体にして戦争遂行に協力せざるを得ないという、苦渋にまみれた暗黒の時代でした。
教祖の教えを奉じる者が戦争に協力するなど、自己の信仰を否定する行為であり、現代を生きる我々には想像もできない事態です。
しかし、明治・大正期の淫祠邪教と蔑まれた時代に、艱難辛苦の末、ようやく一派独立を成し遂げた先人の血の滲む道中を思うとき、何に代えても教団を守ろうとした二代真柱と本部の決断を非難することに私は躊躇いをおぼえます。400万を超える信者を乗せた船の舵を取らなければならない立場。そんな重圧に私なら耐えられない。
その時代を生きた者にしか分からない、信仰者としての心が壊れていく音を聴きながらの決断であったと想像します。
いずれにしても、二代真柱がその豪腕を十全に発揮するためには第二次世界大戦が敗戦によって終結する昭和20年を待たざるを得ませんでした。


■復元-障子一枚へのこだわりと揺れ-

変節の時代を耐え忍び、敗戦によって息を吹き返した教団にあって、二代真柱は遂にその実力を遺憾なく発揮します。
終戦当時、本部中枢でご在世中の教祖を知る者は松村吉太郎(79歳)を除いてほとんどが没しており、その他の主立った者は教祖が現身を隠された後に生まれた者ばかりでした。
その方々は大正9年(1920年)に二代真柱の姉玉千代と結婚し、中山分家となった中山為信(54歳)と、その弟の山澤為次(46歳)東井三代次(46歳)などでした。
中山為信御分家(旧姓山澤)の父である山澤為造は初代真柱の姉の梶本ひさと結婚しており、村吉太郎の子の義孝は山澤為造の娘まちと結婚しています。
当時の本部にあって、中山家・山澤家・松村家が強固な縁戚関係で結ばれていたこと。そしてご在世時の教祖を知る者のほとんどがすでに出直(他界)しているという状況を考えた時、二代真柱主導の「復元」を推し進める体制を敷くことは容易であったと思われます。
そして昭和21年(1946年)。二代真柱は満を持して「復元」を宣言します。

復元と復旧とは決して同じ事を意味しないのであります。以前の姿に復し、又懐旧の情に遊ぶのは決して復元ではありません。あくまでも、元を極め、根源をたづねる所に復元の意義があり復元の活力があると信ずるのであります。

中山正善『復元』創刊号「序」天理教教義及史料集成部 昭和21年 4月18日

「あくまでも、元を極め、根源をたづねる所に復元の意義があり復元の活力がある」という一文に、二代真柱の実証主義の神髄と強固な意志が表われていると感じます。
「復元」宣言の後は、心ならずも改変せざるを得なかった教義が、スピード感をもって本来の教祖の教えに復されていきます。
その過程で二代真柱の東大宗教学の実証主義的態度が発揮されますが、特に昭和24年10月26日に公刊された『天理教教典』第三章に収められた「元の理」には、それが遺憾なく発揮されています。
これまで「泥海古記」や「元初まりの話」「こふき話」と通称されてきたものから不確かな記述やあいまいなものが一気に取り除かれ「元の理」という名称で収められました。
二代真柱の実証主義的態度が反映された「元の理」は「こふき話」と比して、大きな変容が見られるものでした。
以下の文書は『天理教教祖伝』編纂に関するものですが、実証主義の何たるかを端的に述べていると思います。

教祖のいろんな声を、親神様のお話を、自分は熱心な信仰をもつて求めておるが、そう勝手に入れない故に、襖の陰、障子に耳をつけてじつと聞いたというような話がよく伝わつています。それの方が私は本当であろうと思うんです。聞かしてやろうと仰言つて聞いているのではなくて、何とかして聞きたいという求める心から、障子の陰で聞いた。従つて自分にはじきじき聞いたと思つておる人もありましょうが、悪く云うならば、盗み聞きした立場の場合もあると思うのです。それほどに求める心の強さと、そうして、教祖との間の親しみというものは、心にはあつても現実に障子一枚があつたということ、かようなことをやはり頭においてその人たちの言行を、行動を思案するということが大切である。部下の人たちが、上級の会長の現状をそのまま受けて、本当に思うのはこれは当然信仰の上から結構でありまするが、であるが故にそれが本当の事実であるかどうかということは、これは申しにくい場合もあるのであります。ですからかようなことを想像し時、古い初代の教会長が、教祖がこうされた、ああされたというようなことを口伝えているにいたしましても、それがそのまま本当であつたかどうかということに疑いをいだく場合があるのであります。教祖を一つの信仰の立場の対象と考えまして、そうしていゝこと、嬉しいことのみをひながたにお書きいただいたかの如く、あこがれるのは結構であります。しかし史実として、これを書きとどめます時には、ややもすると偏狭になるおそれがあるのであります。片寄るおそれがあるのであります。

中山正善『第十六回教義講習

「障子一枚の隔たり」というものが実証主義の鍵だということです。不確実な伝承や伝聞を排除し、確かな史実を重要視するのが「実証主義」だと理解すれば間違いないのでしょう。
とは言うものの、この文章を熟読する時、天理教教義の裁定者であり統率者である二代真柱に、自らも一信仰者であるという誇りと自覚があるが故に

曰く「教祖のいろんな声を、親神様のお話を、自分は熱心な信仰をもつて求めておるが、そう勝手に入れない故に、襖の陰、障子に耳をつけてじつと聞いたというような話がよく伝わつています。それの方が私は本当であろうと思うんです」

曰く「教祖との間の親しみというものは、心にはあつても現実に障子一枚があつたということ、かようなことをやはり頭においてその人たちの言行を、行動を思案するということが大切である」

曰く「教祖を一つの信仰の立場の対象と考えまして、そうしていゝこと、嬉しいことのみをひながたにお書きいただいたかの如く、あこがれるのは結構であります」

と、先人や熱心な信仰者の信仰形態(信仰習慣)への配慮が見られます。
思えば、東大を卒業した二代真柱が本部に戻った昭和4年(1929年)当時、本部には幾人もの高弟達が存命でした。
中山たまえ 初代真柱夫人 53歳(お母堂)
中山玉千代 中山分家 28歳(正善姉)
大正9年(1920年)山澤為信と結婚
山澤為造 73歳
松村吉太郎 63歳
高井猶吉 69歳
飯降政甚 56歳
宮森与三郎 73歳

板倉槌三郎 70歳
上田ナライト 67歳
増井りん 87歳
広池千九郎 64歳 同年教導職辞任 『見限ったのか見限られたのか』
※↑詳細記事にリンク
東井三代次 30歳
山澤為信 38歳
山澤為次 30歳
中でも太字で記した方々はご在世時の教祖を直に知る方々です。つまり二代真柱にとっては想像することしかできない教祖と、直に接してきた伯父や伯母、あるいは祖父や祖母のような存在の方々です。こうした先人たちの、教祖から直接仕込まれた血の通った信仰と、システマチックにも見える実証主義の狭間で、二代真柱は少なからず葛藤されたのではないでしょうか。
それでも尚、二代真柱が粛々と実証主義を貫いたのは、天理教団を教義体系も定まっていない片田舎の宗教集団から、世界三大宗教にも比肩しうる教義体系を有する宗教団体に育て上げることが、自らが生涯かけて成さねばならぬ使命と思い定めていたからではないでしょうか。
そうした二代真柱の揺るがぬ信念が、遂に天理教の教義体系を結実させたことに疑問を差し挟む余地はありません。
二代真柱が果たした業績無くして教団の存続は無かったであろうということは、誰しもが認めるところではないでしょうか。たとえ二代真柱のパーソナリティが毀誉褒貶や功罪に相半ばしていたとしても、最盛期には400万人とも500万人とも言われる信者数を誇る教団の基礎を築いた稀代の指導者であったことは間違いないと思います。

■教義は不可触領域か-宮池問題を巡って-

さて、教団の現状を俯瞰する時、二代真柱の実証主義に貫かれた天理教教義の解釈について、異議や疑問を唱えることがアンタッチャブルになっているように感じます。果たしてそれでいいのでしょうか。

たとえば『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」に記載されている宮池への身投げの事歴について考えてみましょう。

「教祖は、月日のやしろとして尚も刻限々々に親神の思召を急込まれつつも、人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。
 或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。
しかし、いよ/\となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、「短気を出すやない/\。」と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった。

『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」

と記述される教祖が宮池へ身投げされようとした出来事を巡っては
「中山みき様は天保9年10月26日に神の社となられて以来、まったく人間心も持たない神そのものであった」
という、教団のほぼ公式といえる「突発説」とは別に、
「みき様は神の社となられてからも人間であり、どこまでも神の思し召しに近づこうと努力を重ねられた方である」
という「成人説」を支持する方が少なからず存在します。かくいう私も「成人説」を支持しています。
想像を絶する迫害干渉の中を、どこまでも神の思し召しに近づこうとした生身の人間であったと。
殴られ蹴られすれば痛みに叫び声をお上げになったでしょうし、両手の親指を縄で縛られて梁から吊されたため、晩年には指が変形しておられたとも聞きます。それでも教祖は説き続ることを止めなかったのです。世界を救済するため、親神様のもとでは性別や身分や出自にかかわらず皆が平等であることを。
たった一人で国家権力に立ち向かい、人間の平等を命の限り叫び続けた人間としての教祖に、私は惹かれるのです。教祖が神そのものであったなら、私は教祖とその生涯に、これほどまで感動を覚えることも無く、また惹きつけられはしなかったと思います。恐らく私が信仰を捨てない理由の一つがそこにあると感じています。

ここで、最近注目された『山田倉之助文書 天理教敷島大教会』(天理教敷島大教会史料集成部編、平成13年)と、以前から知られている梅谷四郎の聞き書きを引用します。
まず、山田倉之助が母の「こいそ」(山中忠七の娘)から聞き取ったものです。

・・・なれど御教祖様におかれても 同じ人間の身のこころのせつなみハおなじ事、わがみさへなくバ夫にもこのくろふをかける事のなきものをと ふかくかくごをあそばされ 石をひろふて袖に入れ 池のつつみまで御越しなされしに どふしてもゆかれず 
それゆゑ一度御帰りになり二度目にまた裏門までゆかれしに 火の玉がとんできてどふしてもゆかれず 
それがため 井戸へ身をしづめよふとおもひ 井戸がわをもたれしに 是もどふしてもはまることできす
三度目にまたまたおもひきって井戸へゆこふをおもひお立ちなされしに このたびハ からだしびれて一足も行く事ができなかったとの事であります云々
右は元治元年八月十九日御教祖様大豆越の山中宅へ(母ノ出里、山中忠七)御越し下されし時教祖様より直接母が承りし由ニ聞く

『山田倉之助文書 天理教敷島大教会』P413(天理教敷島大教会史料集成部編、平成13年)

次に梅谷四郎兵衛氏の聞き書きです。

「私は夫を立てれば神様の理が立たず神様の理立てたら夫の理立たんといふ、苦しい場合となりまして、池へ身を投げやうかと思ひました、それで夜の夜中に御門をソット明けて出まして、お宮の池へ出ましたところが、どん〳〵歩行(あるい)た身体がしやつきりとして、ドウしても進まれません。(短期出すのやない〳〵ほどに、返へれ返へれ、年の寄るのを待ち兼ねる)と耳元で神様が仰りました、私はあとへ返れば身体が動くけれども、向むけば身体が、しやつきりとして動かれませなんだのや」
と斯様な御咄聞かして頂きました。

『復元』第十二号P3 梅谷四郎兵衛氏講話「月日のやしろ」

宮池への身投げに関するこの二つの聞き書きを読んでも、『稿本天理教教祖伝』に記述される

人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。

『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」

という解釈には到底納得がいきません。言うなれば唐突感のようなものが拭いきれず、「強弁」ではないか、とすら感じてしまうのです。
この問題を論じる時、身投げ事件に関する古い文書の出典や時代背景を重要視する方もいますが、問題の核心はそこではなく、別の部分にあると私は考えています。
肝心なのは、教団の見解が「教祖の思考は神の思考と完全なるイコール」であるならば『稿本天理教教祖伝』の
「いよ/\となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、「短気を出すやない/\。」と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった」
という、みきと神が対峙する構図をどう説明するのか。
整合性の取れないこの部分をどう解釈するのかが、この問題の核心であると思っています。
「親神の御声、内に聞えて、どうしても果たせなかった」という表現は、明らかに人間中山みきの感覚と、その思考結果を表しています。十全なる神からの助言を受けて踏みとどまった。つまり「対峙」の構図が見て取れる。
「中山みき=神」であるなら、そもそも助言へのアンサーという形式は成立しないと思うのです。
私が教祖の「突発説」を否定する理由の一つがここにあります。
この問題に関して、天理教信仰者にして宗教学の俊英である東京大学の渡辺優准教授が、天理大学人間学部宗教学科講師であった時代に著した『教祖の身体』-中山みき考-の中で

立教以後のみきの神格性を強調する「正統的」教祖論にとって、いわば「躓きの石」となってきた問題がある。いわゆる「宮池」事件である。これは、まだ立教間もないころ、親神の説く「理」と人間関係に発する「情」のあいだで板挟みになったみきが、煩悶のあまり池に身投げしようとした事件である。後年みき自身によって述懐され、教団形成の最初期の段階から信者たちに広まり、みずからも葛藤しつつ神を求める者たちのあいだに多くの共感を呼んできたこのエピソードは、しかし、教祖の神格性を強調する立場からすると、まかり間違えば教義の根幹を揺るがしかねない、厄介な問題でもあった。とりわけそれは、東京帝国大学在学中に姉崎正治に師事して宗教学を修め、今日の天理教学の土台を築いた二代真柱・中山正善にとってそうだった。「神のやしろ」─その立場にある教祖はもはや「人間心」をもたず、それゆえ葛藤は存在しえない─を根幹とする彼の教学にとって、教祖の人格と神格の対立をいかに矛盾なく解釈するかということは、教義体系構築の成否を決する死活的に重要な課題だったのである。
「神のやしろ」の教義を手放せない以上、論理的には最後まで整合性の取れないこの問題の「解決」は、幡鎌によれば、
つまるところ個々の信者たちの「信仰」に委ねられたという。(※)
(※) 幡鎌一弘「『稿本天理教教祖伝』の成立」よりP226-230

渡辺優 『教祖の身体』-中山みき考-

と述べています。
(渡辺優氏はこの論文の中で池田士郎氏の『中山みきの足跡と群像』を引用し、「みきの心」と「みきの身体」のそれぞれ個別の神性について「突発説」「成人説」両論者が思わず思考停止に陥るであろう意表を突く問いかけがなされています。その点については別記事であらためて考察したいと思います)
宮池事件に関して教祖が述懐されたとされる、前掲の山中こいそと梅谷四郎兵衛の文書にある文脈や単語から、教祖の「突発説」を担保するものは見いだせず、むしろ「成人説」を思わせる記述が見受けられます。
しかし二代真柱の教学ではそれを公に認めるわけにはいかず、幡鎌氏が言うように、個々の信者たちの「信仰」に委ねられるたのかも知れません。
ただ言えることは、この教祖の人間的懊悩の物語が信仰者の胸を打ち、我が身に照らして信仰を深めるきっかけになったことは間違いのない事実です。それは無意識の内に教祖を生身の人間と捉えればこその感動ではなかったでしょうか。
「教祖の人格と神格の対立をいかに矛盾なく解釈するかということは、教義体系構築の成否を決する死活的に重要な課題だったのである」とあるように、教義的に整合性の取れないこの問題は非常にデリケートな側面を持つため、早計に結論を出すことは難しいと思われます。
それでもこの問題の解釈は『稿本天理教教祖伝』というタイトルから「稿本」の二文字を外せるか否かを決するほど重要な設問でもあることから、結論が出ぬまでも、教団内で活発な議論がなされて然るべきではないかと思っております。

■超えてゆく者たち

これまで私は二代真柱の持つカリスマ性と実証主義的態度が、教団による教義の再検証を阻害しているのではないかと考えていました。
しかし、それを阻害しているのは二代真柱の不可触なカリスマ性ではなく、教団の事なかれ主義なのではないかと今では思っています。
「天理教の教団内では真の教学者が育たない」という話を耳にしたことがありますが、それが事実であるとしたら早急に改善して欲しいものです。ここで少しだけ個人的な話をさせていただくと、教学について駄文を書き散らしている素人の私は、
松本滋氏 『「経験科学」としての宗教学の功罪
金子昭氏 『天理教の布教の現状と課題―教会のあり方を中心に―
渡辺優氏 『教学と宗教学の幸福な結婚?—天理教二代真柱・中山正善における教祖論をめぐって
金子珠理氏 『天理教における男女共同参画とひのきしんについての一考察
辻井正和氏 『天理教の教勢100年一統計数字から客観的にみるー』
といった方々の論文を参考にさせていただいております。
御用学者が決して触れないテーマに斬り込む彼ら彼女らの論文は、読むたびに新しい発見を与えてくれますが、本部に近い高名な教学者の論文は一定の境界を超えることが無く、新たな気づきを得ることがほとんどありません。
教内学者以外では、天理教のシンパを自称されている熊田一雄氏の論文が出色です。熊田氏の考察は独創的で、特に『「天理教教祖と〈暴力〉の問題系」を再論する』にある、

現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが,その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。
高野友治が,古老からの聞き書きをまとめた労作『ご存命の頃』には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(P214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は,特に男性信者に関しては,世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛,長男・秀司をはじめとして,みきについていく男性信者は,世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう。
逸話三二は、世間の男性の基準から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後,明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。

熊田一雄「天理教教祖と〈暴力〉の問題系」を再論する

という論述に私は瞠目させられ、また氏の最新の著作『格差社会の宗教文化:「民衆」宗教の可能性を再考する』でも、その斬新な切り口に驚かされました。

『格差社会の宗教文化:「民衆」宗教の可能性を再考する』

教外の学者でありながら天理教教義への深い造詣と、暖かいまなざしを注いでくださる熊田氏の存在は、私に希望の光を与えてくれています。

ここで松本滋氏の興味深い小論を紹介します。

この教典は、明治時代に時の政府の意向にそうよう作らされた「旧教典」とちがって、教祖の精神と教えに正しく則ったものとして、昭和24年に刊行され、以来ごく一部の修正はあったものの、殆どそのまま今日に至るまで、天理教の教理として内外に示されて来ている。
それは確かに立派な業蹟であった。そしてそこには東大宗教学の学風が遺憾なく発揮されているとも言える。正善真柱はつねに言っていた。「教理を論ずる場合、必ず確実な資料をもとにして論ぜよ。原典にしるされていないような事を、勝手に論じてはいかん」と。小生も若い頃、この戒めを深く心に刻、みつけたものである。
しかしながら、物事には何でも表があれば裏もある。光があれば影もある。一見、至極正当な編纂方針によって作られた教典ではあったが、そこには重大な欠陥もあった。しかもその欠陥は、東大宗教学の学的伝統のある種の「限界」と密接に結びついたもののように思われるのである。このことに気づいたのは、多分小生が最初であろう。教団内部では、中山正善二代真柱と言えば未だに絶大なる権威をもち、その残した教学上の業蹟にケチをつける者など、殆ど居ないからである。
「重大な欠陥」と小生が言うのは、魂あるいは霊魂の問題が全くといっていいほど説かれていないことである。教祖ははっきり「心」と「魂」を区別し教えているのに、現行教典では心のレベルしか述べられていない。そのため肝心の「かしもの・かりもの」の教理(身体は親神からの「かしもの」だという教え)も、「出直し」(死のこと)の教理にしても主体が判然としない憾みがある。一体どうして、こういうことになったのであろうか。
私見では、これは増野鼓雪色の拭色を意図した結果であると共に、東大宗教学の実証主義的学風がもたらした、思いがけぬ産物でもあった。
鼓雪は未だ「原典」が公刊されぬ頃 ―自分では読んでいたが一 主として信仰者の霊性を開発することによって神に近づく方向を提示していた。そもそも霊や魂の問題は、いわく言い難く、文字に表しにくいものである。しかし、万人に観察可能なこと、あるいは合理的に表現されることだけでは、宗教仰の世界が分るものでないことを、鼓雪はよく知っていた。彼は神秘主義の道を好んだのである。
これに対して、鼓雪以降の教団の動きは、正善真柱の指導のもと、次第次第に教理の合理化、体系化へと向った。原典の公刊、教典の作製は信仰的にも学問的にも重要な意味をもつ事業であったが、その反面、あまり合理的でない、「公開性」に乏しい魂や霊性の問題は、訳の分らぬものとして、鼓雪と結ともに伏せられ、抑えられるようになってしまったのである。
筆者は、中山正善二代真柱を「父親」のように心から尊敬し、その業蹟を高く評価している。しかし、いつまでも故人の枠の中に閉じこもり、引用ばかりしているようでは、教学・思想の発展は望めないであろう。むしろ偉大なる父親というものは、子供が力を蓄えて、自らを批判的に超えてゆくことをこそ、信喜ぶのではなかろうか。
また小生にとって、天理教学思想の面で現教典を越える努力をすることは、「経験科学」としての宗真教学の限界に挑戦することとも連動している。
恩師故岸本英夫教授もまた、小生にとり、乗り越えるべき偉大な父親なのである。(昭和60年9月19日記)

松本滋 「経験科学」としての宗教学の功罪
- 天理教学との関連において-

松本滋氏が言うように、偉大なる父親である二代真は、我々が力を蓄えて、自らを批判的に超えてゆくことを喜ぶのではないでしょうか。
私たちは立ち止まっていてはならないと思います。

さて、ダラダラと長いだけの文書を、偉大なる松本滋氏の言葉を今一度引用して締めたいと思います。

「いつまでも故人の枠の中に閉じこもり、引用ばかりしているようでは、教学・思想の発展は望めないであろう」松本滋

野良犬noteライターには耳の痛いお言葉です。
よって件のごとし。ではまたいずれ。

[註1]姉崎正治
1904年、東京帝国大学教授となる。1905年には同大学文科大学に宗教学講座を開設し、日本の宗教学研究の発展の基礎を築いた。『Wikipedia』より

5月6日 ダラダラと追記。
熊田一雄先生の論文から引用します。

姉崎の枠組みによると、宗教は心理現象であるが、社会的現象として歴史に現れる中で発達していく。そして、まさにその社会との接点において病態を呈するのである。聖母崇拝、盆踊り、生殖器崇拝などが「症例」として言及され、天理教が「最も粗末なる美的感情に耽る者」と負の評価を受けている。
 しかし姉崎は、同じ1898年に発表された「宗教 明治三十年史」(『日本の宗教学 第一集 姉崎正治』第9巻、クレス出版、2002年所収)の中で、東大の哲学者・井上哲次郎(1856-1944)による「教育と宗教の衝突」論から5年目に当たるが、姉崎は岳父となったばかりの井上の論を肯定的に紹介したうえで、仏教界の対応を批判し、キリスト教の反省自覚を評価している。天理教の「道徳の教理」が評価されているが、「東北遊紀余録」での「正直」の評価とともに、最初期の天理教評価である。「天理教について」(1949)という最晩年の文章でも、教理と体験を兼ね備えたものとして天理教を高く評価している。姉崎は、1926年に天理教二代目真柱の中山正善が東大宗教学科に入学して以来、天理教と関係を深め、天理図書館建築に関わり、蔵書千数百冊も寄贈している。姉崎は、1947年に天理語学専門学校での講義中に倒れて以降、亡くなるまで熱海の中山の別荘で過ごしている。上述の「明治三十年史」以来、姉崎は概して天理教には好意的であった。
 このように、姉崎が天理教の「道徳の教理」を評価する一方で、「粗末なる美的感情」を批判していたことは、中山正善による教典編集に大きな影響を与えたように思われる。

熊田一雄『天理教教祖は強い父の夢を見たか?ー日本の宗教界と宗教学の共犯関係ー』

上記太字はBeによるもの。
二代真柱は、師匠である姉崎正治博士が初期の天理教を指して「最も粗末なる美的感情に耽る者」と酷評していたことは当然承知していたと思う。
日本の宗教学の父とも言われる姉崎博士の批判は、400万を超える信者を擁する若き真柱にとって、今後の天理教が目指すべき方向を指し示す光だったのではないだろうか。
当代随一の宗教学者である師によって天理教の新たな教義が認められ、「粗末なる美的感情に耽る者」の誹りを免れることが出来た時、必ずや天理教は社会に認知される。
二代真柱にとって姉崎博士は乗り越えなければならない師父だったのであろう。
かたくなまでに実証主義にこだわった二代真柱の心の深淵にはそんな思いがあったのかも知れない。
ふと、そんなことを思った。

ではまたいずれ。

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