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Beが書いたもんどす

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天理教に関してBeが思うことを書いた記事です。批判的なものが多いので、アンチ天理教と思われがちですが、「ホンマかいな?」と首を傾げたくなる「教理もどき」に辟易としている私は、ただ…
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2022年9月の記事一覧

Articles list(記事一覧)

NEW(新着) ● ひながたの同行者「中山こかん」考 ● ひながたの同行者「中山秀司」考 ● 秀司さん&儀三郎さんwith Be ● (続)春季大祭を迎えるにあたり-『御教祖御臨終のおさしづの考察』より- ● 地震は神の残念・立腹の顕れなのか ● 春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から- ● 教祖(おやさま)のご日常と存命の理について ● 青春の蹉跌 -或いはクリスマスの思い出- ● 疑似家族 -僕を育ててくれた人々-  ● 秋季大祭神殿講話

復元の実とは何ぞや『祭儀研究委員会答申書」

教祖100年祭を翌年に控えた立教148年(昭和60年・1985年)、『みちのとも』11月号に「特集」【復元四十年 第一部】として、本部員、田邊教一氏による「神道とのかかわりの中で」と題された随想が掲載されました。 その中で田邊氏は「復元とは、単に復旧ではなく、元を極め、根源をたすねる所に、復元の意義がある」という二代真柱の言葉を引用した上で、 と述べました。 「復元」の何たるかをとても分かりやすく教内に示した文章であると思います。 その後、今日までに一般教会においても〆縄

I'm back!「理の親」再び  

立教153年度(平成2年・1990年)の『かなめ会報』を読んでいて、とても気になるお話がありました。 上の画像は教祖100年祭から4年後、当時の表統領である故深谷善和氏が「かなめ会」で語った言葉です。 読者に分かりやすいよう、以下に黄線枠内を抜粋してみました。 ※深谷善和氏は元表統領室長、深谷善太郎氏(河原町大教会長)の父 深谷元表統領は「かなめ会の席上でも何度か私共に、お預かりしている理の子に対しての、理の親としての心尽くし、という点を重ね重ねお仕込み頂いている訳でござ

陽気ぐらし試論

『みちのとも』6月号に教祖140年祭に向かう歩み方についての両統領によるインタビュー記事が掲載されました。 私の系統では大教会長から全部内教会長に対して「必ず読むように」との至上命令が降りました。なんだか「読まんかったらタダじゃおかんからな!」という勢いでした。 気の小さい私など「え。読まんかったらどうなるの?埋められちゃうの?沈められちゃうの?」と雨に濡れた子犬のようにブルブル震えましたよ。 もちろん届くや否や、襟も膝も正して拝読いたしました。いたしましたとも。これでも素

理の親ってなんだ?-捏造という誹謗中傷への回答を含む-

昭和27年に開講された第14回教義講習会で、講師である山名大教会 諸井慶五郎は「理の子供として、又理の親として、現実の姿には色々ありますが、これを具体的に申しますならば上級教会と部属教会、教会長と信徒、たすけた人とたすけられた人、という事になりましょう」と理の親子の関係について講義をした。聴衆は全国から寄り集った教会長である。教祖の教えに無い理の親信仰が、あたかも純教理の如く伝えられたのである。 この講義の内容に危機感をおぼえた二代真柱は、閉講式において と、柔らかな表現で

まだ間に合うのだろうか

二代真柱が著した『おふでさき概説』に 「これ迄の先輩の歩みを習うと同時に、それが教祖の教えられた本筋に添っていないものならば、今からでも遅くはないから改めて貰いたい」 とあります。 この言葉について。天理大学おやさと研究所の辻井正和氏は と述べています。明治21年に遡って見直す(゚ロ゚;)ハッ!! 本当にそれが成されればお道は蘇るかも知れません。 教団の良心に期待するばかりです。 さて教勢が衰退する今、明治21年まで遡らずともその原因を見つめ直すことが喫緊の課題であるのは