とうちこの科学

 大暑を迎え、茹だるような日差しに暑さの募る連日の中、皆様は体調には気をつけておられるだろうか。
 さて、セミの鳴き声が響く今日この頃。古くから親しまれていたこの音にワビサビを感じ、日本の夏を実感できるのでは無いだろうか。
 まだセミが死滅してしまう前、かの有名な松尾芭蕉が次のような句を残している。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 世俗的な喧騒から離れた山道に蝉の鳴き声が響き渡るという夏らしい句だ。
 さて、蝉の鳴き声の電子化が盛んになった今日ではあるが、風情を感じるとともにその歴史を振り返っていきたい。
 蝉の電子化の提案は名児埜大学自然科学研究所じねんかがくけんきゅうしょ佛理学ふつりがく専門室の研究員、僧名「当知庫とうちこ」が2017年に発表したことは記憶に新しい。
 今回はこの発表の経緯について詳しく解説する。
 1990年代初頭、彼は各地の寺院をめぐり外部読経による佛理的エネルギーの生産量の調査を行っていた。
 1993年の夏頃、宝賜山立岩寺の調査の際の山道中で佛理エネルギー検知器が外部読経作用を捉えていた。目立った外部読経作用が行われていないにも関わらず、検知器にエネルギーが感知される現象は度々あり、当時は空気中の佛子に反応していると考えられていたが、それだけでは説明がつかない程の佛理的エネルギーが観測されていた。
 調査僧隊は当知庫を含め4名であったが、道中で読経はしてはいなかったし、諳誦による念波ねんぴの発音もしてはいなかった。
 立岩寺での調査後、当知庫とうちこは寺に間借りし山道中での現象を研究し、いろいろなことが見えてきた。
 宝賜山の石に含有される佛理的エネルギーが異常に多かったのだ。
 この未知の佛理エネルギーの源を究明すべく更なる調査を行う最中、当知庫とうちこはある俳句を思い出した。そう、松尾芭蕉の蝉の声の俳句である。
 あの句にあるワンフレーズ「岩にしみ入る蝉の声」は比喩ではなく、佛理的に正しい現象を詠んだものではないか?と考え、次の仮説を立てた。
 「蝉は鳴いているのではない。誦しているのだ。」と。

 2000年、蝉の器官の調査依頼を受けた当知庫とうちこの同門のテオドリ氏率いる研究所員らが蝉の発声器官の発音膜に梵字が刻印されていることを発見する。
 これにより、当知庫の蝉の鳴き声は梵音であるという説が立証された。

 この立説が社会に与えた影響は大きく、2010年代に社会問題にまで発展した蝉の乱獲事件である。
 昆虫一匹で多量のエネルギー資源となることをメディアが広く世間に周知させたために乱暴な手段を用いて蝉を捕獲することが横行した。
 しかしながら、蝉の鳴き声の佛理的エネルギーは凄まじく、狭い空間に閉じ込めてしまうと梵音が反響し、発声元の蝉自身が梵音に耐えきれず死滅してしまうため、安易な捕獲では効率的なエネルギー資源とは呼べなかった。
 2016年には日本に生息する蝉が8割減少し、そのために佛理循環が崩れ各地で自然災害が頻発するようになった。
 この減少を見越して当知庫とうちことテオドリ氏や同門僧らが蝉の電子化案に関する論文を作成していた。これが2017年8月10日の蝉の電子化制御による佛理循環統治行為論である。

 当知庫とうちこの2023年に寄稿した宗教新聞には次の懺悔さんげが記された。
「蝉を滅ぼしたのは私だ。一縷の疑いも無く、一切の弁解の余地などない。贖い切れぬ失態を背負い成せる精一杯を尽くすつもりだ。」
 2023年8月現在、当知庫は”とうちこ”と改め、国を越え衆生救済を目的とした大乗僧団、国境なき僧団の一員として活動している。
 「自身に知庫という不遜な名前を名乗る資格はなく、しかし私が当知庫であったという罪は消せない。ただの意味を持たないひらがな羅列として、名をとうちこと改めた。」
 身を粉にし衆生に救いを与えるとうちこに結縁を。

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