見出し画像

とうちこは振り向かない

 早朝5時、思いがけず早起きをしたので散歩に出かける。散歩は雨天でないときは決まって山の梺の小川に沿って作られた遊歩道を通る。
 山頂から流れる川のせせらぎが涼やかに流れ、木製の遊歩道の床を踏む音と水音だけが響く。早朝にもたらされる三文の得はここにある。
 遊歩道の中腹あたりで、道の端に髪の長い女の人が立っていた。全身黒っぽい格好で、こちらに背を向けたまま、俯いてじっとしている。スマホでもいじっているのだろうと気にもとめずに、その横をすり抜けるつもりで歩を進めたところで、ずるっと足を滑らせて転んでしまった。
 静かな場所だったために尻餅をついた音は目立って聞こえた。
「いってぇー」
と気恥ずかしさを紛らわせるために声を上げ、さりげなく立っていた女性の方に視線を移した。
 彼女は変わらず不動でこちらに振り向いてはいなかった。
 無視するにはあまりに無理があろうほどの大きな音が不意に響いたはずなのだが、と考えているとどうにも気色悪く思えてならなかった。
 髪の長いあの女性は振り向かなかった、というこの一点だけで気味悪がるのもどうかとは思うが、中腹まで来た遊歩道を引き返した。

 ただこれだけのエピソードであるが、どうにも私の記憶に一連の出来事がへばりつくように残っていた。
 一人でぼーっとしていると頻繁にその記憶が脳裏で再生されてしまう。
 大したことない、ただ女性が振り向かなかっただけの話なのだがこんなに頻回にリフレインされるとモヤモヤしてくる。
 友人たちにこのエピソードを話して気を紛らわせた。「ビビリだなぁ」「怖い話の読みすぎだよ」などと彼らには茶化されたが、逆になんでもないことなのだと安心できた。ただ道に立っていた人に過剰反応しただけの愚かな話だったのだと結論付けた。

 その日の夜、あの遊歩道を歩いている夢を見た。
 あの時の散歩道を再現しているを見ているような、自分の視点なのにどこか俯瞰して映像を観ているようだった。
 どんどんと遊歩道を進み、件の女性がいた場所に近づいていく。中腹に差し掛かると、やはりあの女性が道の端に立っていた。腰ほどまで長く伸びた髪が全体の黒さを際立てる。そしてやはり不動だった。向こうを向いたままうつむいて立っているだけだ。
 この辺りで転んだんだよな、と地面に目を向けるとあることに気がついた。
 この髪の長い女性の爪先が自分の方に向いているのだ。
 そして
 白く細い2本の足が伸びている。
 腰ほどまでに伸びている髪が女性の体の後ろの方まである。
 髪がまとわりついた2本の腕。
 首。
 長い髪の毛から覗ける、白いあごの輪郭。
 口元。
 そして口元が歪んで
「…ちこ」
と声が聞こえた。
 目を逸らさなきゃ、振り向かないと、振り向かないと振り向かないと。
 パニックに陥って必死に目を逸らそうとして、夢から覚めた。

 たぶん、わかってたいた、必死に否定してたのだ。
 振り向く振り向かないじゃない、もともとこっちを見てたのだ。ずっと。じっと。
「ちこ」
 ベッドから離れて家を急いで出るまで、私は振り向かなかった。
 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?