高橋について語るべきことは(続)  

 前回は以下のように終わった。
 
 私が最後に高橋に会ったのは二〇二一年十二月の初めのころだった。いつものようにふらりと私の店に現れた。雪でも降りそうな夕方の四時くらいだった。いつもより姿が小さく見えた。疲れているようだった。
「最後の最後に『あんた騙されたんだ』と言われたら、さすがに全身から力が抜けたよ。目まいがした。そうか、俺は騙されていたのか。そうかもしれないと、うすうす感じていたが、やっぱり俺は騙されていたのか。騙されたところから始まってボロボロになって辞めるのか。体のどこかが壊れた気がした。生きるためには仕事をしなければならない。それはよくわかっている。わかっているからこそ、いろいろな仕事をしながら、これまで数えられないくらいの、嫌なことを浴びてきて、頑張って、それでも適応できなくて、鬱になって、逃げ出して、振出しに戻って、また仕事を覚えて、新しい人間関係をつくり上げて、また潰れて、潰されて、その繰り返し…。そうまでして生きることにどんな意味があるのかなあ。年だけ取って、もう若くない。若くないんだよ、俺は。無職と鬱病が、それが俺の人生のすべてなのか。そうなのか? 妻の人生を潰して、妻を不幸にしただけの人生なのか。それが俺の人生だったのかな。誰か教えてくれないかなあ。頼むからさ…」
高橋は独り言みたいに話したあと「また次を探す」と言って帰った。それ以後、会ったことがない。
 
 そして続きが始まる。
 
 二〇二二年五月のゴールデウイークが終わった後、高橋がふらりと店に顔を出した。
「仕事が決まった。倉庫の荷受作業だ。還暦間近にはきつい仕事だが、やれるだけやってみるよ。仕事は六月一日から」
 私はちょうど店が忙しくて高橋の相手をしている暇がなかった。一段落して店の周りをを探したが、高橋は帰ったようだった。
 次に高橋にあったのは二〇二三年一月の中旬。元日に「おめでとう」メールが高橋から届いたので、こちらから飲みに誘った。店というか自宅の近くの居酒屋で痛飲して、我々は日を跨いでから、それぞれの家に帰った。高橋はタクシーで私は徒歩で。
 そのとき高橋は「還暦過ぎて肉体労働は厳しいな。生活保護の金でも貰いたいのが本音だが、離婚しなければそれも無理。離婚するつもりは少なくとも俺にはない」と言っていた。私は高橋に意地悪な質問をした。「管理人と、どっちがキツイ?」高橋は即答した。「管理人」。その答えを聞いて私は高橋がまだ大丈夫だと勝手に決めつけた。
 
 次に高橋にあったのは、その年の7月の上旬だった。いつものようにふらりと店に顔を出した。その夏は猛暑と豪雨が繰り返す狂ったような夏だった。高橋は来た日は豪雨だった。
「一昨日、仕事を辞めた。また無職さ」
「倉庫の?」
「ああ。体がもたなかった。次は何もしないつもりだ」
 豪雨のために客は一人もいない。ショッピングセンターの中にも、人は疎らで、重い湿った空気だけが空間を満たしていた。
 私は店を閉めて、高橋と一緒に近所の居酒屋に入った。二人ともずぶ濡れになりながら、暖簾をくぐると、そこにも客はいなかった。ぼんやりしたバイトの女が注文を取りに来た。客が来たのが嬉しいのか嬉しくないのか微妙な顔をしていた。
「お疲れ」とビールで乾杯した。
「店閉めてよかったのか?」
「いいさ。こんな雨じゃ誰も来ない。話を聞くよ」
「大した話はない。仕事を見つけて仕事に適応できなくて辞めた。俺が何十回も繰り返してきたことだ」
「でもまあ、せっかくだから聞かせてもらおう」
 高橋は話し始めたが、静かな店内でも、ときどき聞こえないくらいの音量だった。まるで十年は老け込んだような、知らない老人の声だった。
 
 俺は去年の六月に仕事を始めた。誰でもできる簡単仕事。肉体労働で夏は暑くて冬は寒い。前任者は五十代の女性だから男性なら楽にできる仕事だ。という説明だったが、現実は甘くなかった。
その会社はわかりやすく言えば券売機を作る会社だ。そのための部品が毎日入庫される。一階が倉庫で部品の入庫と製品の出庫が行われる。二階と三階と四階が部品の倉庫で、五階と六階で部品の組み立てが行われる。組み立てられた製品は一階の倉庫から出荷される。七階が社員食堂でバイトでも食べることはできる。俺も一回食べたが高くて不味いので一回で懲りたよ。
 俺の仕事は、まず朝九時から夕方四時過ぎまで、サッカーができるくらいの広さの倉庫で荷受けだ。大型トラックやコンテナーが次々にやって来る。社員がリフトでパレットを降ろす。それを俺が人力で捌く。部品番号と個数を確認して、二階、三階、四階に仕分けして、行先ごとの各階の台車に載せる。俺には体力も筋力もないから、俺の荷受け作業は時間がかかる。その間にもトラックは列をなす。忙しい時は「助けを呼んでいいから」と言われていたので、内線電話で社員に助けを求める。でも来ない。トラックの運転手はイライラしてくる。こっちは焦る。汗だくで何とかこなして、ほっとした頃、社員がヘルプにやって来る。ワザとか何だか知らないが、助けてもらえたことなんて記憶にないね。部品は重厚長大で、それを人力で移動させるのだから、体中が悲鳴をあげる。すぐに五十五キロあった体重が五十キロを割った。体中に湿布を貼った。自分でも臭くてたまらないほどだった。昼休憩を挟んで夕方まで、そんなドタバタが続く。
夕方四時からは、社員からリストが渡される。リストには階数と棚番号と部品名と個数が書いてある。リストを見ながら部品を探して組立の担当に渡す。部品点数は数百。埃だらけの広くて暗い倉庫で独楽鼠のようにうろつきながら部品を探す。集めて組立に渡す。また体中が悲鳴をあげる。棚番号なんて当てにならない。社員に教えてもらうと「ここにある」と全く違う棚を教えられる。それではリストの棚番号をなぜ変えないのかと指摘しても、ひと睨みされて「忙しいから変えない。お前が覚えろ」と言われてお終い。
 
 私は高橋に質問する。「前任者は五十代の女性だったのは嘘か?」
「嘘じゃないらしい。ただし噂によれば、身長百八十で体重八十の女子プロ並みだったらしいけど」
「それは詐欺だな。何でその女は辞めたんだろう」
「これも噂だけれど突然死。倉庫の中で倒れていた。救急搬送される途中で心停止。病院で死亡が確認。コロナワクチンによる副作用かもしれない、とか」
 
 結局、俺は去年の六月から今年の七月まで働いた。自分でもよく頑張ったと思う。最後までヘルプはなかったけれど、ドライバーを待たせる時間は短縮できたと思う。夕方からの部品を探しも(当てにならない棚番を無視して)棚の場所を覚えて、人並みにできるようになったと思う。
 
 私は高橋に質問する。「それだけきつかったら給料は良かったんじゃないのか?」
「最低時給で週休二日。一年勤続しても時給は変わらない。最低のまま。週休二日では体中の痛みが取れない。休みの間、ほぼ寝たきり。何もする気力が起きない。最初は気持ち的には鬱ではなかったのに、次第に、体の痛みのせいで鬱になっていった。体が心を支配する感覚を初めて味わった。驚いた。今のところ鬱はマシだが、手首や腰は痛い。今でも蓄積疲労はなかなか消えない」
 
 俺が今年の六月に「辞めさせてくれ」と上司に告げたら、引き留められることも、残念がられることもなく「どうぞ辞めてください」という答えが返ってきた。あっけなかったね。これからどうする?って。何もしないよ。とりあえず職安には行くよ。失業保険金のために。良いところがあれば仕事をする気はもちろんあるけど。あると思うか? 還暦過ぎの無能で無力なお爺さんだよ。悲観も落胆も絶望もしていない今は鬱ですらない。晴れ晴れした気持ちだ。妻は今でも働いている。さすがに身近で体がボロボロになる俺を見たから、働けとは言わない。早めに年金をもらうかもしれない。大した額ではないけれど。それか離婚して、田舎に帰って、生活保護で暮らすか。今のところ何も決まってなんかいない。
 
 我々は少し飲んで少し肴を摘まんで少し話した。店を出ると雨は上がっていた。高橋は最終電車で帰った。私は夜空に月を探した。そして、見えるはずのない虹を探した。高橋のために。自分のために。
 

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