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ブランディングもマーケティングも関係ない

ただいま仕込中。

水曜日はウチの庭を使って週1でやっている飲み食いサロン的な集まりの日だ。
能書きはなにもない。
別に高級料理や希少な酒を会員だけで楽しむグルメの集いでもない。
毎週私がおカネをかけないで手間暇はちょっとだけかけて、BBQをやったりたこ焼きをやったり、来る人も勝手に好きなものを持ち込んで楽しく飲むだけの会である。

メンバーも特に決まっていないけど、友人や友人の友人とか以前やっていた店の常連さんとか、ウチは宿をやっているので、その時たまたま泊まっているお客さんにも声をかけて一緒に楽しむ。

会費はその日のメニューによってひとり500円から1,000円で、ドリンクは基本持ち込み。手ブラで来たい人には缶ビールを1本200円で出している。
もちろんこれでは儲からないが、赤字にもならないので構わない。少し浮いた分は、次に回にまわせばいい。

ところで、沖縄には模合という文化が残っていて、これは仲間同士が月一程度集まってメンバー全員から一定額を徴収して、月ごとにひとりが全額を受け取るという、もともとは民間金融の仕組みであったが、今では出身校や地域の同期生であったり、商売上の付き合いなど、顔つなぎや付き合い、あるいはたんに飲みにいく口実という色合いが強くなっているようだ。

私は基本的に気分で飲む人間で、毎月決まった日に同じメンバーで飲むことを規定されるような会合は苦手なので長いことこれを避けてきたのだが、8年前にある出来事があって、それをきっかけにひとつだけ参加している模合がある。

もうかれこれ40年くらい続いていて、十数名のメンバーのうち半数は発足時から毎月延々とやっているらしいが、不思議と話題に事欠くこともなくみなさんいつも楽しそうに飲んでいる(楽しめない人たちは少しずつ淘汰されていったのだろう)。
おじさんばかりの会だが、みなそれぞれ好きなことをやって生きてるせいか、意外なほどグチや説教臭い話はまったくでない。

当日の飲み代は模合金とはべつに集めているので、ゲストも気軽に参加できる。
私もときどきお客さんを連れていったりするのだが、若い人(特に女性)が混ざると場は俄然盛り上がる。
内向きな空気はなく、みんなときどきこうして新しい水が入ってくることを喜んでいるようだ。

かつて私は東京大阪などに暮らしていたので、行動範囲内に行きつけの店をつくってはたいていひとりで通いつめて、そこで出会う人たちと仲良くなったり時には仕事をもらったりもして、なんとなく交友関係や人脈作りの拠点は酒場という感じで生きてきた。
今振り返ると非常にコスパが悪いことをやっていたわけだが、基本酒は好きだし、当時は独り身だったし今よりは食い扶持もあったし、なによりも他に為すすべがなかった。

都会ならそれでいいのだろう。
カネを稼げる人はそういうところに落として、出会いの場を求めればいいのだ。
稼げない人でも、都会ならとりあえず人はたくさんいる。ある程度レアな趣味でもネットを使って人集めはできるし、オフ会でもやれば仲間をつくれる。

ところが田舎ではなかなかそうはいかない。
まず人がいない。そしてカネがない。多様な需要がないのでニッチビジネスは無理。よって、酒場といえば、料理は味より量、グループでとにかく安く飲めて内向きに盛り上がれる、というニーズがほとんどなので、どこもそういう感じの店ばかりになる。

まして平日の夜にいつひとりで行っても、気の合うお仲間がたくさん集まっているような店をみつけるのはなかなか難しい。

気がつくと外に飲みに行ったり外食をほとんどしなくなっていた。
「商売をやっているからそういう付き合いもやらなきゃ」という気持ちも(もともとあまりなかったが)まったくなくなった。
ほんとうに食べたいもの、ウチではできないもの、そこにしかない空気感みたいなものを提供してくれるところには少々カネを使ってでも時々出かける。

しかし基本的には、私が普段酒を飲むときに求める要素はごくありふれた居心地のいい環境とふつうの酒とふつうに美味いアテと気兼ねなく一緒に飲める相手である。
他にはないような特別感も誰かがそれをオシャレと感じるかどうかという視点もまったく不要なのである(それを必要としているのはどっちかというと売る側である)。

じつはそういう場を求めているのだけど、どうやってみつけていいのかわからないという人は案外多いのではないだろうか。
何事もネットで検索する時代には、キーワードを明確にしなければなにものにも出会うことができない。
自分の求めるものがそういう特別感や強い個性を放つものではなく、ごくありふれたなんとなく居心地のいい場所、といった曖昧なものであったときに、頼りになるのは自分の直感と行動力ということになるが、(かつて私たちたちがさんざんやってきたような)直感で一見の店に飛び込むというのもコストがかかるし、まして田舎ではかなり効率が悪い。

そんな人は自分で場をつくってしまえばいいのだ。
べつに料理ができなくたっていい。スナックと缶酎ハイだって場はつくれる。
人脈がなくたっていい。最初は友達ひとりでもいいし、次はその人が別の友達を連れてきてくれたり、その人が心地いいと感じれば、またべつの人を連れてくるかもしれない。
カリスマ性も必要ない。自分が心地いいと思える場所を用意して、それを共有できそうな人を呼べばいい。ビジネスでなければ大きくしたり、集客力を考えることもない。ようは週イチでも月イチでも、自分自身が楽しめる要素をひとつでもその場に据えて、内向きにならず外に向かって開いた場を継続して提供することだ。

20代の頃に、(名目はいちおう草野球チームだが)なんだかよくわからないけどとにかく家に人を集めて飲むのが好きな先輩がいて、私は友達に連れられていって、なんだかよくわからないけど愉快な人たちが大勢いてとても楽しい時間を過ごしたことがあって、「ああこれが宗教の勧誘だったらすぐに取り込まれてしまうな」と思いつつもとても印象に残っていて、なぜ自分にはこれができないのだろう?と考えた時期があった。

その後も様々なやり方で人が気軽に集まって心地よい時間を過ごす場というものを探求している人たちをみてきたし、自分自身も試行錯誤してきたが、いつも感じていたのは、なにかひとつの趣旨とか趣味とかノリみたいなものを押し付けられたくないし押し付けたくない自分がいて、かといってなにものでもない曖昧なものを立ち上げて人を呼ぶのは簡単ではないということだ。

しかし現在はひじょうにシンプルな結論にたどり着きつつあり、なんとなく実践している。

私はこういうところに自分のやっていることを書いて自慢したいわけではないし売り込みたいわけでもない。とくに他人を鼓舞したいという使命感も持ち合わせていない。自慢できることなどなにもなく、誰にでも簡単にできることをただやっているだけだし、誰にでもできる簡単なことだから続けられるバズだと、自分自身にいっているようなところもある。

規模や意義を気にすることもない。他人の真似をする必要もないが、真似をしたって別に構わない。
いろんな人がいろんな規模のそれぞれの場をつくって、参加者はその日の気分で足の向く場へ出かけていく、そんなことがふつうになっていけばいいと思うし、私のささやかな「場づくり」のなかにも少しばかりのヒントがあればと願っている。

さて、それでは今夜の廃鶏まるごとカオマンガイとローストチキンの仕込みに戻るとします。

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