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【レポート】尹雄大講座「閉じると開く」

コミュニケーションというのをどう捉えるかは自分にとって長年の課題だった。「お前は変わっている」と言われ続け流石に最近は無くなったがハブられた事もあった。特に女の子との会話は長年の課題だった。ただ幾ら学んでも自分のやり方と違う異物感を感じ続けていた。

決定的だったのは自分の大病の時だった。コミュニケーションの達人と私が思っていた人達が病気になった自分への対し方の多くは目を覆いたくなるほど稚拙なものだと感じられた。傾聴という言葉を知ったり、コミュニケーションを考えるキッカケになった。
私の置かれた辛い状況を多くの知人は「わかる」と答え、彼ら自身の頭の中での想像や過去の投影を自分に重ね合わせて来た。叉ある人は「解らない」として私からは距離をおいてきた。私が求めていたコミュニケーションは「私の話を共感はできなくともそういうものだと思って聴いて欲しい」だった。巷にある「わかるー」といった共感を主体としたコミュニケーションが急にメッキの剥がれた紛い物に見えてきたのだった。

さらに大病の後後遺症を患ったが多くのトレーナーは私の病歴や症状や私がどう感じているかに興味を示さなかった。彼らは彼らの世界で完結しており閉じていた。それに多いに怒りと失望を感じた私は「身体操作」に学びを進める事になった。心底欠乏を感じていたからこそそこに歩を進める事が出来た。そこで知ったのは世の中の常識はマーケティングされたもので嘘が多いという事だった。

私はコミュニケーションをその学んだ身体性を拡張することで確立することは出来ないか考えていた。そんな折に出会ったのが尹雄大さんの身体性を含んだコミュニケーション学、哲学なのである。

人間というものをどう捉えるのか

こういったら元も子もないが人間をテキスト(2次元)に落とし込んでしまうと零れ落ちるものが必ずある。何故なら我々は2次元以上の存在であるから。当たり前である。言葉という物の制限、限界を覚悟しながら人間というものを言葉で語り、紡いでいく。人間と人間のコミュニケーション論については世の中に山ほどある、だがそれらの殆どは誤りというか抜け落ちが多い。技術だけでは結局人間知には一歩も近づけない。

尹さんの講義を受け始めてから人への見方、向かい方を変えた。言い淀む人、吃る人の人間性や味に目を向けるようになった。何故ならそこにその人の本質が見えるからである。例えばVoicyで白木夏子さんという起業家のお話を聞くのが私は好きである。何故ならば彼女は聡明でありながら言い淀んだり、時に立ち止まったりする。その部分が私は好きだ。そこに彼女の誠実さが見えるからだ。

この講座の後にzoomであるラボに参加した。最近注目しているある女性があまりにも流暢に話すのを聞いて少し興醒めしてしまった。ナチュラルに話す人は過去自分が考えた事を話しているだけで何処か今ここにない、という感じを受けるのだ。

自己肯定感という言葉はとても不思議だ、と尹さんは言う。自己に対して不安を感じているならそれを肯定すれば良いのではないかと言う。

まず内に開き、外に閉じる

我々は閉じる事が難しくなっている。その事に気づけたのは筆者が長い長い入院生活をしたからだ。最初はコロナ禍という事もありニュースがずっと気になっていて時に政府の対応や有識者の発言に腹を立てて社会的な事をブログに書き込んでいた。あれは何だったのだろうと今でも思うが今思えば入院生活を送りながら「外に向かって開いていないといけない」という様に無意識に思っていたのだろうと思う。思えばここ10年間開き続けていた。他人の仕事ややり方に首を突っ込み続けていた。逆に突っ込まれ続けている状況もあってそれはとてもストレスだった。

たとえ一人でいてもスマホで常にニュースを見ている状況は「外に閉じ内に開く」事にはならない。自分を外界の情報の渦に埋没させない為には閉じなければいけない。

二度目の入院の時、自分は外側のニュースをチェックせず個人的に深めたい事を見て見たい映画を見てゆっくり過ごす事に決めた。その時に広がってくる孤独と同時に自分の内側を感じる事が出来た。だからこそ自分の「内側のコミュニケーション」を開始する事が出来たのだろう。私は何を恐れていたのだろう。他者を気にし、外のニュースをあーだこーだ言っている内は「自分が本当に感じている」事など出て来よう筈もない。

声を大にして言いたい。貴方の感じた事は誰にも否定できない。貴方の実際感じた事を否定する人がいたらその人はまず距離と距離感を間違えている。そしてその人は自分と貴方は違うという事に敬意を払っていない未熟者だ。

社会の中で評価される為にはまず「他者評価」が大切だ。「市場価値」という言葉もある。だが生き方まで社会化すると自分の内なる動物性を失い身体が反乱を起こすだろう。

そして外に開き内に閉じる

一方自分の感覚だけで生きてはいけないと尹さんは説く。それは自分のローカリズムで生きている事となる。私は9種体癖(おそらく)なのでどちらかと言えば本来内側に閉じすぎ、主観のみで生きがちだ。(だがこの10年くらいはそれだけではいけないと外に開き続け人の言う事を色々取り入れ続け過ぎだ)

私が注目している某9種総合格闘家のNoteを見ていると苦しくなる時がある。彼の語る言葉には「思想、信念、主義、主張」が出てくる。彼は他人の言う事に対し揺らぐ事はない、そういうポジションに身を置いている。だがそれはとても退屈な事の様に思える。彼の闘い方は型に嵌れば無双の強さを誇るが、そうでない場合は無惨に負ける事が多い。それも含めて彼のストーリーだと言い切れば完結してしまうがそのストーリーを作り出しているのは何かという対話が見えてない。だが彼には格闘技がある。その他者との戦いにおいて「見たくもない自分」を見ている。その時に発せられる言葉にはリアリティがあり心をうつものがある時がある。

私は外へ外へと意識が向き旅をずっと続けていた事があった。人間には「未知を味わう」「謎に会いたい」「解らない事を知りたい」という価値感を持っている。あの時があるからこそ自分の内へ内へと今身体の旅を続ける事が出来ているのだろう。

現在の世界はあまりにも開かれている。「社会性」で相手を分かったと思う事が多い。余りにも「わかる」という言葉を口にしがちだ、というのは他ならぬ自分の体感である。それは不定見だ。尹さんはその社会性に押しつぶされない哲学を紡ごうとしている様に思える。

コミュニケーションとは?そして傾聴とは?

触れ合った手の甲への意識&ベクトルで対象物と繋がりを作る事が出来る

相手と繋がりを作る時はその触れている「手の甲」を意識する事。そこから自分側に意識を向ける事(俯瞰的視点)により繋がりは強くなる。優れたロルフィング施術者から人に手を触れる時「手の甲」に意識を向けるとお聞きした事がある。又優れた動きマスターからは倒立する時には「手の甲」に意識を向けて地面より栄養を吸い上げるようにすれば楽に倒立できると聞いた事がある。

これは理屈、理論でなく実際に身体がそうなっているという事を尹さんの講座で体感した。そして今まで身体操作で学んできた事と強く繋がった。「傾聴は身体操作であり自分の姿勢、角度、真摯さ、緊迫感が問われる」「言う事を聞くのではなく言わんとする事を聞こうとする事があるだけだ」

コミュニケーションは身体操作である。誤解を恐れずに言えばパワハラ、セクハラは身体性の能力の欠如が大きい。だから言葉で定義しようとすると限界がある。どうやって対立構造を作らずに繋がりを作るのか。「反応しない練習」という本があり私も好きなのだが反応しない事と繋がりを切る事は違う。大切なのはどこにどちらのベクトルに意識を向けるかが結果を大きく変えるのだ。その事は特に教育現場において問われて良いのではないか。

かつての自分(今も少しその面影はあるが)と同じく考えすぎる人は頭と身体のコミュニケーションが取れてない事が多い。自分を掘り下げる事が苦手でマニュアルやコンサルに頼ろうとする。「確認する事」の大切さを貴方は社会人になると会社で問われるかもしれない。だがそれを鵜呑みしてはいけないと強く思う。何故なら生きるとは言葉を超えたコミュニケーション(内、外)であり確認作業をし続けることは「生きる」事からは離れるのは少なくとも知っておいた方が良い。

生きるとは

結局生きるとはほぼ「コミュニケーション」なのだろう。例えば自分がブレイクダンスのあるムーブを出来なかったとする。その時にすぐ他人に答えを求めたり、出来ない自分腹を立てたりする事が多い。だがその時に大切なのは「出来ない自分」「解らない事」を丸ごと肯定、受容する事である。そこを特異点とする事。出来ないというのはしばしば伸び代であったりする。そこから対話という大いなる旅が始まるのだ。

自己責任とは結局自分の中で対話があるかだと思う。そうしないと周りにいるお節介なコンサル野郎が首を突っ込んできてそれの餌食になるだけだ。コミュニケーションは色々な意味合いから捉えられる。だが現在は余りにも情報を滑らかに伝達するかに注力しがちなのだろう。

内側にも外側にも閉じると連動して呼吸の様に同時に起こる。その事についてはもっと今後掘り下げてみたいと思う。

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