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神様ってどんな性格?

神様ってどんな人格を持った方なのか、
考えたことはありますか?

人々の理解を超えた神秘的な、愛情深い、
厳しい罰を与える…etc
様々なイメージがあると思います。

神様の心、イメージ、
解像度が上がれば上がるほど、
世の中の見え方が変わってきます。

できるだけ専門的な言葉は使わず、
僕の実体験からまとめてみましたので、
ぜひ最後まで観てみてください。


僕が通っているJTJ宣教神学校で、
聖書を理解していく上で核になる

「福音総合理解」という
重要な授業があります。

全16時間、聖書に書かれているイェス様の
様々な"たとえ話"を通して

神様はどのようなお方なのか
を多面的に理解するという内容です。

そして、そのたとえ話の中でも
特に僕が感動したこと、
教えられたことを共有したいと思います。

有名な「放蕩(ほうとう)息子」の
例え話です。


カンタンに説明すると、
父の財産を湯水のように使い込んで、
餓死しそうになったときに

悔い改めて父のもとに帰った、
という内容。


ここ単体で見ても素晴らしい神様の愛を
感じられますが、

前後の文脈からみていくと、
もっともっと味わい深いお話でした。

3つの例え話で1セットになっており、

罪人と食事をともにしているイェス様に
文句を言っている"パリサイ人"に向けて
とっさに話した例え話なんです。

"すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」"
《ルカの福音書15章2節》

この3品1セットの完璧すぎる構成に
アメリカで有名な小説家オー・ヘンリーが
神業としか考えられない、

と信仰告白をしたそうです。


①100匹中1匹の迷った羊を探す
羊飼いのたとえ話
②10枚セットの銀貨で無くした
1枚を探すたとえ話
③放蕩息子

この3つで1セットです。
1つずつ深掘りしてきます。

①100匹中1匹の迷った羊を探す羊飼いのたとえ話

そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っているそのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで探し歩かないだろうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
《ルカの福音書15章3~7節》

まず、羊は動き回るので数えるのも
骨が折れます。

その中で方向音痴だったり、
勝手な行動をする。

いっそ狼に食べられるか、
谷に落ちて死んでしまった方が群れのため…
と普通の人は思うような”一匹の迷った羊”

僕自身も"迷った1匹"の自覚がありますね…🐏

その1匹のために、
99匹を野原に残したまま
見つけるまで探し歩かないだろうか?

なんという愛でしょうか…。

現代の感覚では考えられないのですが、
羊飼いは100匹すべてに名前をつけて、
違いを見分けていると言います。

神様も当然、全人類の名前を
漏れなく覚えていて、

迷った1人を全力で助けにいくようなお方
ということです。


②10枚セットの銀貨で無くした1枚を探すたとえ話

また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、

『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、天の御使いたちの前には喜びがあるのです。
《ルカの福音書15章8~10節》

結婚するときに親が娘に持たせる
10枚で1セットの銀貨。

揃っていないと価値が
なくなってしまうものです。

もし無くしてしまったら
見つけるまで念入りに探さないだろうか?

もし見つかったら
隣近所に言いまわってみんなで喜ぶ。

これが天国で起きていることです。
そして、天国はそれくらい想像もできないほど
よい場所だということです。


③放蕩息子

100匹中で1匹の羊、
10枚でセットの銀貨の1つ…
そして2人のうち1人のお話になります。

イエスはまた、こう話された。
「ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。

それで、父は財産を二人に分けてやった。
《ルカの福音書11節〜12節》

親が生きている間に遺産をもらうというのは、
ユダヤの世界ではとんでもない親不孝で、
あり得ない話でした。


それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

何もかも使い果たした後、その地方全体に厳しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に等えてはくれなかった。

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」

こうして彼は立ち上がって、父のもとへ向かった。
《ルカの福音書13節〜19節》

天のお父様に背を向けて、感謝もなく、
勝手な要求を突きつけて、父の元を出る…。
僕も思い当たることがたくさんあります。


ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この子は、死んでいたのに生き渡り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
《ルカの福音書15章20~24節》

かわいそうに思い、というのが
内蔵する愛(アガペの愛)と言われますが、

内蔵を引き裂かれるくらいの憐れみ、
神様にしかできない全人類に向けられている
無条件の特別な愛です。


ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。

それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、 友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。

父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。
《ルカの福音書15章25~31節》

「長年お父さんに仕えて、
言いつけを破ったことは一度もない」
「小山羊1匹もくださったことはない」
欲しいと言えば良い話。

神様は気前の良い方ですから
お願いすればくれるはずです。

でも、そういうコミュニケーションが
無かった。

ただただボロを出さないように戒めを守って、
形式だけの礼拝を続けていた。

そこで出てきた
「罪人達と食事まで一緒にしやがって」
という言葉。

その律法主義の行き着く先は…

1000年以上厳しい律法を守り続けて、
満を持して旧約聖書から預言されていた
イェス様という救い主が目の前に。

しかしそれを受け入れられないどころか、
十字架につけてしまいました。

しかし、そんなイスラエルにも
救済の計画を用意してくださっています。
下記事を参考▼


3つの例え話に共通しているのは、
無くなったものが見つかったのは
喜ぶのは当然ではないか、ということです。

しかも放蕩息子に関しては

『お父さん。私は天に対して罪を犯し、
あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

悔い改めて本心を取り戻して
帰ってきたのです。

だから喜ぶのは当然ではないか、
これが律法主義のパリサイ人に向けての
結論です。


この3品1セットのたとえ話、
すごすぎませんか?

僕の中ではこのたとえ話が最も神様の心を
表していると感じています。

『1匹の迷った羊』
『10枚セットのドラクマ銀貨の1つ』
『放蕩した1人の息子』

を救うために完全な"人"として地上に降りて、
身代わりに十字架にかかるほど
愛してくださっていた。

人知をはるかに超えた愛です。
こんな無条件の愛は世界中探しても、
どの哲学や宗教でもあり得ないでしょう。


僕の経験からお話すると、
親が牧師をしているので、
小さい頃から教会に通っていますが、

劇的に変わった経験がなく、
信仰もドライでした。

「言いつけを破ったことはありません」
という傲慢な兄側の気持ちも分かります。


20歳で上京してから
教会に行っても何も現実が変わらない
気がしてしまい、

少しずつ教会から離れていきました。

神様の言葉を聞くことよりも、
お金やダンスの方が優先順位が
上がっていました。

ビジネスの世界でもダンスの世界でも、
厳しい競争にさらされながら、
生活も不安定。

世の中の価値観に染まれば染まるほど、
神様から離れれば離れるほど、
生き辛さが増していきました。

とにかくお金が欲しい
ダンスがうまくなりたい

そんな自己中心な祈りすら
神様は聞いてくださって、

のちに教会で活かせるような
知恵を与えてくれました。


ビジネスが上手くいくのも、
ダンスが上達するのもノウハウではなく、
結局は人間関係。

そして、それが上手くいくのは
神様との関係だということを
悟らせてもらったのです。

それから、子どものときは退屈だった
聖書に関心を持つようになり、

神学校に通い始め、
そこからの縁で教会で
仕事をするようになりました。

今まで経験した仕事は苦痛で
ただ時間をお金に変えるような
虚しさがありましたが、

今は本当に楽しく仕事ができていて、
教会の中でもダンスを教えたり練習したり、

発表する機会に恵まれて、
毎日少しずつ上達。
心の平安を保てています。


神様はロボットのように
服従させたいわけではなく、
盲信させたいわけでもありません。

"自分の意志"で神様に立ち返ることを
辛抱強ーーーく、
待ってくださっています。

そして、立ち返ったときには

『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この子は、死んでいたのに生き帰り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
《ルカの福音書15章22節〜24節》

このように想像を絶するような祝福を
用意してくださっています。

これ以上に最高のニュースは無くないですか?

僕は放蕩息子のような祝福を
肌で体験させてもらいました。


世の中のテレビやSNSは
パンデミックや戦争、

一部の成功者の良いところだけを
切り取った投稿、
誰かの悪口、揚げ足取り、

見ていて不幸になるような
ニュースばかりです。

もっと良いニュースが増えたらいいなと思い、
その種まきとして
Twitter(X)を続けています。


タイトルの「神様ってどんな性格?」
の答えは、

「ごめんなさい」と悔い改めて帰ったときに
大喜びで迎えてくださる
優しいお父さんのような方
、です。

6日間でこの世界を作った全知全能の神様が
そんな方だなんて、
これほど心強いことはないですよね。

信じますか??


また、優しさゆえに
秩序を保つために
厳しく公正な一面もあります。

だから聖書を読み込んで、祈って、
それを日常に活かして体験しながら

多面的に神様はどんな方か
知ることが大切だといつも教わっています。


聖書を読んだことがない方でも
クリスチャンだけどあまり実感が持てない
という方でも

ぜひ質問や感想をいただけると
嬉しいです。

Twitter(X)のDM


最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

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