不登校もチャンスに
自分が不登校であった当時、担任や学年主任が週1回くらいのサイクルで自宅訪問をしてくれていた。
殆どが、勤務時間終了後の時間だったので、今にして思えば、よく通ってくださったとは思う。
当時の自分には、これほど鬱陶しいものはなかった。
子供の目から見ても、仕方なく訪問しているのが、透けて見える部分もあったし、【学校に来いよ】と言わんばかりの対応がプレッシャーでしかなく、翌朝はより体調が悪かったように記憶がある。
訪問の感覚が空いてきた時のほうが、教室外登校ではあったけれど、少しの時間登校ができていたように思う。
学校に来いよ、来れるよな、行けるよね、というのは圧力でしかなくて、
【待っているから来れるときに来いよ】くらいの接し方を求めていたように思う。
今の子供たちは不登校になる理由や、取り巻く環境も違うと思うけれど、家庭、学校という狭い世界で生きている子供時代にあると、どちらかに不安を抱えるだけで、この世の終わりのように錯覚してしまうこともあると思う。
自分も当時は、学校に行けない、進学もできそうにない、家庭の状況も悪化しているのが感じられて、先行きが不安なのに何もできない。人生詰んだ状態に思えていた。
手を差し伸べてほしいとは思いながらも、誰に手を出せばよいのか分からないのが自分だった。
結局は自分の足で進むしかないというのは大人になった今ならわかるが、子供にそれを求めるのはかなり困難なことだと思う。
今は、不登校の子が通える場所もあったり、いわゆる【第3の場所】場所も作られてきた。
自分の時にも、こういった居場所の支援があればよかったなと思う反面、大元である家庭、学校の本体部分を良くするために力を割かないといけないようにも思う。
サードプレイスは、羽を休める場所として、世の中に必要。そこから生まれる人間関係もある。問題を解決できる可能性も勿論ある。
しかし、本来は家庭、学校で良好な関係を築けることが理想で、ある程度の教養を身に着けて社会に出るに越したことはない。
将来避けては通れない【自立】。
大人になってからのほうが人生長い。
慌てる必要はないけれど、最低限の学力や、家事能力、不登校でも自分で磨けるものはある。
いくらAIや機器が発達しても、物事を進める要領は人間側もわかっていないといけない。
集団生活は足並みを揃えることも求められるけれど、自立に向けた実践を早くに取り組んでいけるなら、不登校もチャンスなのかもしれない。