Call Sign:ABYSSAL-EYES

―*―*―*―

 暗くくすんだ冬空に溶けるように、レドームを背負った灰色の機影が飛び去ってゆく。
 低く垂れこめた雲間に消えてゆく翼端灯を見送る航空誘導員たちも、足早に格納庫へと引き上げる。
 酷く冷え切った風が、ひゅるりと音を立てて、管制塔や林立する電波鉄塔の合間を吹き抜けた。
 辺りには、灰色一色の無機質な低層ビルヂングが数棟連なる、殺風景を具現化したような景色が広がっている。
 滑走路に灯る管制用のライト群だけが瞬く、暗く淀んだ灰色の世界。
 そこは、単に『基地』と呼ばれる軍事施設だ。
 正確な座標も、正式な名称さえも伏せられた、電子の城にして情報の砦。
 戦地から遠く離れていながらにして、常に最前線の緊張感を孕んだ、インテリジェンスの中枢。
 そんな『基地』には、とある風聞が存在する。
 曰く、『基地』の内奥には、濁った瞳の魔女が棲む。
 電子を絡繰り、情報を喰らい、みずからの私利私欲が為に『基地』の全機能を掌中に収める、そんな魔女が棲み付いている。
 ひとたび魔女の棲処に足を踏み入れ、その勘気を被れば、無事に退出することは叶わず、時にその命さえも奪われる――そんな風聞だ。
 『基地』の外から聞いてみれば、何かの比喩だと思うはずだ。
 インテリジェンス施設にありがちな、触れてはならない機密情報の類か、あるいはそれらを扱う秘匿設備か。
 常人が踏み入れてはならない領域を、魔女と称して恐れていると。
 しかし、『基地』に勤務する者たちは、否応無しに知っている。
 濁った瞳の魔女は、確かに実在する、と。

 ―*―*―*―
 
 『基地』の奥底、その一室。
 鉄製のドアが四度、ノックされた。
「失礼いたします、少尉」
『……その律義さは本部付の軍曹か……開けるだけなら、勝手に開けてくれていいんだがね』
 ドアの上に設けられたスピーカー越しの声はしかし、不思議と玲瓏な響きを伴って軍曹の耳朶を打った。
 軍曹は再度、失礼いたします、と述べてドアを開く。
 腕を伸ばして扉を開ききった後、形式張った敬礼の姿勢を取りつつも、軍曹は部屋の入口から歩を進めることはない。
 そこに不可侵の一線が引かれていることを、軍曹は理解していた。
 そのうちに、無数のコンピューターと入出力機器の群れに圧された部屋の奥から、生白い顔が覗く。
 仄暗い部屋の中にあってさえ、圧倒的な暗さを湛えた、青黒い隈に縁取られた黒い瞳が、軍曹の顔を見遣る。
「それで……ボクになんの用だい? 今、中々に忙しいのだけれどね」
 少尉は答礼もせず、止めどないタイピング音を響かせながら、長い袖に隠された手元にも、正面のディスプレイにさえも目を向けず、ただじいっと軍曹に視線を向ける。
 底冷えのする感覚を抑え込みつつ、軍曹は敬礼の姿勢を解き、努めて冷静に口を開く。
「基地司令閣下より、伝言を申し付かっております」
 暫時、タイピング音が途切れた。
「……ほう? それで……閣下は何と?」
 声色に混ざる、微かな興味と、そして嫌悪の色合い。
 義務感に急かされて、軍曹は伝えるべき情報だけを口にする。
「『可及的速やかに、基地司令室に出頭せよ』、と」
「……なんだ、そうかい」
 瞬時に興味を失ったように、少尉はディスプレイに向き直る。
 再び響き渡る猛烈な速度のタイピング音の中、責務と畏怖の狭間で、軍曹は言葉に詰まった。
 立ち尽くしたままの軍曹に、少尉は言葉のつぶてを投げる。
「『可及的速やか』ということは……即時即刻に呼び付けるような危急の用件では、ないということさ。さっきも言ったがね……このように、今ボクは多忙極まる」
「しかしながら少尉、基地司令閣下は――」
「軍曹」
 少尉は億劫そうに再度首を回して、部屋の入口に立ち尽くす軍曹に、濁り切った目線を定める。
「二度は……言わないよ?」
 瞬間、戦場で自身に狙いを定めた機関砲の砲口を見付けでもしたかのように、軍曹は反射的に身を竦めた。
 戦慄と共に生唾を飲み下しつつ、それでも強張った唇をこじ開けて、何とか二の句を継ぐ。
「…………その旨を、閣下にお伝えいたします」
「宜しい」
 逃げ去るようにドアを閉じかけ、慌てて再度の敬礼を行う軍曹を、追い遣るように少尉は目をすがめた。
 今度こそ閉じられたドアに暫し視線を向けたまま、少尉は態とらしく独り言ちる。
「嗚呼、閣下も人が悪い。態々軍曹をボクの棲処に差し向けずとも……呼び出す手段はいくらでもあろうに」
 淀みなく歌い上げるような声色とは裏腹に、ますます暗さを増したその瞳は、汚泥と血反吐に塗れた塹壕よりもなお淀んでいる。
 その瞳をぎょろりと巡らせ、少尉は天井を振り仰ぐ。
 さもその先に誰かの視線があるかのように、嘲りに満ちた口元を歪める。
「――――……ねぇ?」 

―*―*―*―
 
 夜も更けきり、過半の兵士や士官たちが兵舎に引き上げ、減灯された『基地』の一棟。
 その高級将校専用のエレベーターの扉が、不意に開く。
 エレベーターホールに歩を進める孤影が、赤絨毯を素足で踏みにじる。
 疲労と厭悪に彩られたどす黒い瞳に、生気は一切感じられない。
制帽は被らず、胸元はだらしなくはだけ、脚は下履きを履いているかも怪しいほどに露出している。
 異様な風体の中にあって、ただ襟元にある少尉の階級章と、胸元の情報部隊の徽章だけが、彼女が正規の軍人であることを示していた。
 ゆらり、ゆらりと、幽鬼のような足取りで、少尉が歩を進めてゆく。
 辿り着いたのは、『基地司令室』のプレートが掲げられた部屋の眼前。
 前室の扉を両手で押し開けてから、少尉は軽く息を溜める。
 そうして、ふっ、と勢いをつけて、基地司令室の扉を美しく長い脚で蹴り開けた。
「……只今出頭いたしましたよ……基地司令閣下」
 敬礼するでもなく、蹴りを繰り出した半身の姿勢のまま、室内に呼び掛ける。
 基地司令は乱行を咎めるでもなく、広々とした部屋の奥、デスクチェアに深く腰掛けたまま応じる。
「待ちわびたぞ、少尉」
 重厚な声が響いたデスクの後背、分厚い防爆ガラスの向こうには、とっぷりと更けた深夜の暗闇がわだかまっている。
 少尉はその闇よりもなお暗い瞳で、基地司令を睨め付けながら、室内にずかずかと踏み入れる。
「それで……何用でありますか、基地司令閣下。ご存知の通り……ボクは実に多忙の身なのですがね」
 少尉は手元を隠す袖を大仰に振り、嘆かわし気に言葉を投げながら、部屋の中央に設えられた応接用ソファに、当然の権利のように腰を下ろす。
 『基地』の最上位者に対する態度とはとても思えない、露悪的な態度。
「多忙は承知している。だから待った」
 それを手慣れた風に受け流しつつ、基地司令は手元のボタンを操作する。
 基地司令室の在室表示盤のマーカーが、応接中を示す赤色を灯したのを確認し、基地司令はゆったりとデスクから腰を上げた。
 泰然とした所作への苛立ちと嘲弄を含んだ、態とらしい口調で、少尉は言い募る。
「……で、結局何用なのですか。ボクひとりの為に……基地司令閣下が、こんな夜更けにまで居残るほどの、重要な案件でありましょうな?」
 それには応えず、基地司令は淡々とした足取りでデスク横を通り抜け、少尉の正面に移動する。
 上座側のソファに腰を下ろし、思案気に手を組む。
 少尉は焦れた風に眉を跳ねさせつつ、ローテーブルにだらしなく脚を乗せる。
 重い沈黙が、場を支配した。
 かちり、と時計の針が寸時を刻んだ頃、急き立てるように少尉が口を開く。
「……いい加減に、」
「少尉」
 その機先を制するように、基地司令は短く呼び掛けた。
 閉口した少尉の、業を煮やして更に濁り切った瞳を、正面から見詰める。
「世話役の一等兵とはずいぶんと」
 基地司令は一度言葉を切り、指を軽く遊ばせてから先を繋ぐ。
「仲良くしているようだな」
「……そんなことが用件でありますか、基地司令閣下?」
 拍子抜けしたように、少尉はソファに沈みながら脚を組み替える。
 基地司令はそれにも目を遣らず、正面から少尉の顔を見定める。
「そうだ。貴官にしては珍しく、邪険にもせず扱っている。理由を知りたい」
「……それは個人的な質問ですか、職位に基づく詰問ですか」
 退屈そうに長い袖先をいじりながら、少尉は粗雑な質問を投げかけた。
「どちらにせよ、同じ事だ」
 無回答を許さない響きに、少尉は深いため息を吐きつつ、つらりと言葉を流す。
「あの新兵くんは、我が国の平和と独立を守るべく、国民の負託にこたえる強い愛国心と正義感を持ち、性根は真面目にして実直。ゆえに任務に忠実でありながらも、ボクの機嫌を損なうようなことはしてこない。つまり自身の規律を他者に、ボクに強要しないだけの柔軟性がある。それでありながら、このボクに対して物怖じすることなく向き合う器量、すなわち将器の持ち主と言っていい。そしてなにより――――」
 薄笑いを浮かべたまま胡乱な賛辞を並べ立てて、しかし最後に、はっきり言い切る。
「――――いい“瞳”をしている」
 そして肉食獣のような笑みを作り、暗がりの瞳にいっそう力を込めて、宣告する。
「だから、あれはボクのモノだ」
 一挙に喋り切って、唇を湿らすように舌なめずりをする少尉に、基地司令は短く応える。
「そうか、結構なことだ。ただし」
 ソファから立ち上がりながら、言葉を下す。
「ただしだ、所有物を表す印は、もう少し密やかにしたまえ。弁明させてやるにも限度というものがある」
「……然て、なんのことでありましょうな」
 一拍、言葉の空隙に、視線が合わさる。
 深く淀み、濁り尽くした見上げる瞳と、重く深い、光を湛えた見下ろす瞳。
 よく似た黒色をした双眸同士が、交わる事なく相手に突き刺さる。
「……ボクが……このボクが、人並みの幸福でも、手に入れようとしているとお考えで?」
「まさか。そうで無いからこそ、忠告している」
 言葉と視線が、戈戟となって互いを穿つ。
 それを愉しむように、少尉は厭らしく笑みを浮かべ、言い捨てる。
「ボクの機嫌次第で……この『基地』を、軍の情報機能の中枢を破滅に導くことだって可能だと、お忘れなく」
「それは無い。貴官は愛国心無き悪人だが、狂人では有り得無い故に、な」
 基地司令は一切動ずることなく、鍔迫り合いを軽くいなす。
 少尉は面白く無さげに口元を引き結ぶと、勢いを付けてソファから立ち上がった。
「……そろそろ失礼しますよ、基地司令閣下……申し上げた通り、何分多忙ですのでね」
「――宜しい」
 入室時と同じく、敬礼するでもなく、余した袖を左右に揺らしながら退室する少尉の後姿を、基地司令はただ見送る。
 叩き付けるように閉じられたドアに向けられた、視線の内に混じる寂寥の色は、黒く沈んで誰の目にも映ることはなかった。
 基地司令は深く息を吐きつつデスクに戻り、紙巻煙草を手に取る。
 窓の向こうに広がる星一つ無い闇夜に、燐寸の炎が一つ灯る。
 その仄かな明かりの中に、過ぎた日の残照が浮かぶ。
『ねえ、おとう様、わたしもおとう様のような、立派な軍人に――――』
 過ぎた日の面影を、基地司令は紫煙と共に吐いて捨てる。
 吹き消された炎と共に、残影も掻き消えて、灰と煙に溶けてゆく。
 煙草の熾火がもみ消された後には、ただ暗く深く、濁った闇だけが、そこにはあった。
 
 ―了―


~はしがき~

 こちらはプロ野球人生シミュレーションブラウザゲーム、BBL(Baseball Life)界隈を含む、通称BHO界隈で2023年12月上旬に行われた、その名も『性癖ドラフト』なる 狂気の宴 企画の副産物となります。
 『性癖ドラフト』は読んで字のごとく、リスト化された『性癖』をドラフト形式で指名し、一つのコンセプトとして(厳密にはそうでなくてもいいのですが)キャラクタ化してゆくという 狂気の宴 素晴らしい企画です。
 その 狂気の宴 企画に参加した猛者たち、総勢21名の中で、私が指名した要素は以下のようなものでした。

No.11 Missingの指名リスト(再構成)

 競合もなく非常に満足のいく指名だった、という話は一旦脇に置くとして、『性癖ドラフト』の後には、恒例となっていた各指名に対する人気投票という 一歩先の狂気 ワクワクするイベントが待ち受けていました。
 結果としては、74票中6票を得て同率6位という形だったのですが、その票のひとつに、数百字に及ぶSSのような投票理由が書き込まれていたのです。
 その投票理由については私のX(旧:Twitter)の引用リポストを参照していただくとして、元来アマチュア文章書きである私は「此方も抜かねば無作法というもの」という感覚を得て、投票理由に対するアンサーとして筆を走らせた結果、上述の『Call Sign:ABYSSAL-EYES』が書き上がったのです。
 正直、『性癖ドラフト』からここまでの事に発展するとは思っていなかったというか、数百字に及ぶSSのような投票理由が飛んできた時点で大分想定外でしたが、私自身がそれに対するアンサーとしてこの尺の文章を用意することになるとは夢にも思っていませんでした。
 しかし、『性癖ドラフト』の名の通り、指名した性癖を詰め込んだキャラはまさしく私の理想とするところであり、それを血肉を持った『キャラクタ』として構築してくれた投票者の方には、大変感謝しています。
 結果的に、それを原動力として、短いながらも一つの物語のカケラを生み出せた。そのことは、私にとってとても有意義な経験となりました。
 また、 狂気の宴 『性癖ドラフト』主宰の方、参加者の皆様、他の投票者の方々、校閲にご協力いただいた某氏にも、感謝の念を添えつつ。

 乱文乱筆にて失礼いたしました。ご高閲、誠にありがとうございました。

2024/6/29追記:なぜか、続きが出来ました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?