Call Sign:ABYSSAL-EYES【2】

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【注意】以降の展開には、暴力的な描写を含む場合があります。  

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「厭だね」
 開口一番、凛と濁った声色で放たれた拒絶の意志に、一等兵は閉口せざるを得ない。
 正確な座標も、正式な名称さえも伏せられた、『基地』の奥底。
 鉄扉に鎖されし電算機室に座する、“濁眼の魔女”――そう称される少尉は、乱雑に、どこか稚ささえ感じさせる声音で言い放った。
 その視線は一等兵の側に向けられることはなく、幾重にも張り巡らされたモニタ群を注視したままだ。
 少尉は生脚を大っぴらにデスクの上に投げ出して、身体に引き寄せたキーボードとタッチパネルを操りつつ、サイドテーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばす。
 いつになくだらしなく、荒々しく業務を進める少尉の周辺には、どす黒い靄のようなものがわだかまっているようだった。
「まだ何も申し上げておりません、少尉どの」
 少尉が居座るデスクチェアの背後で、一等兵は直立不動のまま苦し気に言葉を返す。
「……ボクが厭だと言ったら、厭なんだよ新兵くん……分かったかい?」
 後背を振り仰ぐことさえせず、生白い左手をひらひらと振って、一等兵を追い出そうとする素振りを見せる。
 それでも一等兵は自身の任務を果たすべく、怯むことなく言葉を繋ぐ。
「いえ、基地司令閣下からの――」
「だから、」
 中途で遮り、少尉はデスクから脚を下ろし、チェアをぐるりと左回転させて身体ごと振り返る。
 気怠げに脚を組みつつも、余した袖の下ではそれでも打鍵の音が響き、画面にも手元にも視線を遣らず、その瞳をぐるりと巡らせた。
 いつもの如く青黒い隈に彩られた、極黒に沈んだ瞳が一等兵の眼を捉える。
「厭だ、と言っているだろう、新兵くん……これ以上は、赦さないよ」
 黒々とした瞳の奥底に、常時には無い、熾火のように燻ぶる厭悪の情を感じ、一等兵は唾を飲み下した。
 それでも、一等兵は鋼鉄の信念をもって更に言い重ねる。
「はい。いいえ、少尉どの。私を罰して頂くのは結構ですが、職責として基地司令閣下からの辞令をお伝えしなければなりません」
「…………はぁ、新兵くん、キミのその責任感には脱帽するよ。ただでさえ悪いボクの機嫌を更に損ねると明らかに分かっていて尚、職務を全うしようとする姿には、涙が出てしまいそうだね……」
 少尉はぼさついた髪をかき上げながら、わざとらしく片袖を目元にやる。
 もちろんのこと涙の一滴も流さず、干上がり茫漠とした荒れ野の暗さを湛えた瞳が、じいっと一等兵の眼を捉え続けている。
 一等兵も視線を逸らすことはなく彫像が如く直立の姿勢を崩さず、ただ幾多の電子機材が唸る音だけが電算機室には響いていた。
 しばしの空白を置いて、根負けしたかのように少尉は頬杖を突き、溜め息交じりに粗雑に問を置く。
「……分かった分かった。なれば、さっさと伝達したまえよ……キミの任に基づいて、基地司令閣下の御言葉とやらを。その後で、」
 少尉は手元のマグカップからコーヒーを一気に煽る。
「……たっぷり、呪ってあげようじゃないか」
 不穏な台詞に、一等兵は湧き上がる苦衷を飲み下しつつ、その責務を果たすべく基地司令の言葉を伝える。
「出張の辞令であります、少尉どの。『陸』『海』『空』、三軍の中央情報担当官を招集しての会議を執り行うとのことで、開催場所は『陸』の所有する施設とのことであります」
「……正気かい? ボクに、出張? この電算機室からさえ滅多に出はしないボクが……それも『基地』の外に出るのが、どういう意味を持つのか……分かるかい、新兵くん?」
 険しく眉根を寄せて、珍しく、手元の作業さえ一切止めて、少尉は一等兵を面詰する。
「少尉どの、私には会議の意図は測りかねます。ただ、基地司令閣下から正式な辞令として下されたということは、それに値する理由があることと愚考します」
 はっきりと言い切る一等兵に、少尉はもう一度ため息をつき、チェアに身体を深く没めながら言葉を放る。
「……キミのその実直さには素直に感心するよ、新兵くんよ。ボクはキミほど……立派で誠実な軍人を他に見たことが無いね」
「はっ、勿体ないお言葉です」
「…………まあいい。キミのその、素直さに免じて、出向いてやらないこともないさ。ただ幾つか条件は付けさせてもらうがね……新兵くん、基地司令閣下に言付けをお願いするよ……」
 少尉は脚を組み替えて、面倒げに袖先をいじりながら、前にのめって一等兵を下から睨め上げる。
「はっ、では伝言を――」
「……その前に、だよ」
 突如として伸び上がるように立ち上がった少尉が、一等兵の襟元に諸手で掴みかかる。
 首元の釦をするりと外すと、少尉は震慄を堪える一等兵の首元に口を寄せた。
 獰悪に、牙を剥くかのような笑顔を浮かべた少尉は、それでもひっそりと囁くように、呪詛を述べる。
「コーヒーの例の効能、そのおさらいといこうか」
 
―*―*―*―
 
「そうか、少尉は出張を承諾してくれたか」
 基地司令室に赴いた一等兵の報告に、基地司令は淡然と応じる。
 一等兵はぴんと張ったその背筋に汗が伝うのを感じながら、アタッシェケースに収められていた紙束を基地司令のデスクに差し出す。
「はっ。しかし、少尉は幾つか条件があると。こちらの書類に列挙してあります」
 重厚なデスクの上、未決書類の入ったケースを避けて、びっしりと文字が躍った幾枚もの書類が並べられてゆく。
 書類が揃えられてゆく間、基地司令の視線は書類ではなく、一等兵の瞳――よりも下、襟元の辺りに向けられていた。
 その視線をひしひしと感じながら、一等兵は努めて冷静に書類を並べてゆく。
 基地司令は書類に改めて目を落とし、数枚の書類を捲って泰然と呟く。
「すべて目を通しておく。大抵の条件は……そうだな、応じることが出来るだろう。まずもって、一等兵を随行させることは特に問題なかろう。この後にでも伝えてくれ」
「はっ、お伝えいたします」
 了諾の敬礼を執る一等兵に視線を向けつつ、基地司令は自らの顎を撫ぜた。
「……それで、だ一等兵。その首のガーゼはどうしたのだ」
 一等兵の首元には一〇センチ四方のガーゼが当てがわれ、その端はサージカルテープで留められていた。
 完璧に整えられた軍服からはみ出た白い布は、奇妙な存在感を放ってしまっている。
 一等兵は努めて冷静に、ありのままの事実を述べるかの如く応答する。
「はっ。猫であります基地司令閣下。猫を捕まえようとしたところ、手酷く引っ掻かれまして、このように」
「ほほう。鼠一匹出入り出来はしないと言われるこの『基地』に、猫か。偵察機器の類ではあるまいな」
 厳戒に厳戒を重ねた『基地』の警備体制を思い出しながら、一等兵は何とか舌を回す。
「…………はっ。確かに、普通の猫でありました」
「ふむ……まあ大方年代物の金網の破損か、あるいは心優しい者が招き入れてしまったかだろう。設備と警備体制の再点検でも指示しておくか」
 咎めるでもなく、ただ事務的に責任者としての言葉を述べる基地司令に、一等兵は二の句を継げない。
 その態度を検めるでもなく、基地司令はデスクチェアから立ち上がると、紙巻煙草に火を点けつつ、防爆ガラスの外に目をやった。
 荒ぶ寒風に絶息するかのように、いつも通りの灰色の世界が、そこには広がっている。
 日差しの蔭った、薄暗く澄んだ空気の向こうに、基地司令は言葉を投げた。
「――“霧”だ、一等兵」
「はっ…………霧、でありますか?」
 灰色の世界に、霧は掛かっていない。
 それでも、基地司令はもう一度、今度は一等兵の方に黒々と輝く瞳を向けて、分厚く重く、箴言を繰り返す。
「そうだ、“霧”には充分に注意を払いたまえ。頼んだぞ」
「はっ、善処、いたします」
 意図を測りかねつつも、一等兵は基地司令からの言葉を承諾せざるを得ない。
 燻る紫煙を纏いながら、基地司令は窓の外に目線を戻す。
「では、下がってよろしい」
「はっ、失礼致します」
敬礼と共に退室する一等兵を見送るでもなく、基地司令は外を見遣り続けている。
 デスクの上に整えられた、一等兵が持ち込んだ書類の脇、未決書類のケースの中には、特秘の赤印が捺された書類が伏せられていた。
 今度はそれを捲りながら、基地司令は深く溜息を吐く。
 書類には、幾枚かの人物写真と共に、大型銃のスペシフィケーションが羅列されている。
 「『“霧”の動向に関する調査報告書』、か」
 独白と共に吐きだされた煙が、霧のように部屋の空気を霞ませる。
 張り詰めた霞を吹き散らすように、基地司令はもう一息、溜息を吐いた。

 -続-

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