笑いと悪意
脳が文字も音も受け付けない時、僕は決まってお笑いを見る。
ラランドのラジオ、ラーメンズのコント、男性ブランコ、ヨネダ2000……
笑いは良い。セロトニンとアドレナリンがあふれ出るのを感じる。
笑いが好きすぎるがあまり、幼稚園の卒園アルバムに担任から「いつもお笑いの話をしている愉快な子だった」と書かれる僕だ。
笑いのメカニズムが知りたく、文献を探していると「笑い学会」という実に愉快そうな名前の学会を発見した。そこに在籍している先生方の本や論文を集め、読んでみた。
人を傷つける笑いとは何か。傷つけずに笑える方法はないか。気の弱い僕はそんなことを考え続けた。例えばチャップリンは強き者を嘲笑う。僕はそうなりたいと思う。発言力のない、弱き者どもを笑うのは卑怯だ。そんなもの面白くもなんともない。
先日の某お笑いグランプリにおける漫才を揶揄していることに気づいた人はなかなかのお笑いファンであろう。あのくだらない「実在する」「弱き者たち」を笑うボケの数々にも一笑どころか呆然としたことは言うまでもない。
しかし僕が心に引っかかっているのはツッコミの彼が言った「センシティブ」という言葉である。
以前、知人にも言われたことがある。「センシティブな話題だから話したくない」と。
僕は確かにここに存在しており、思考し、飯を喰らい、生きている。もしかしたら皆が見る夢の中なのかもしれないが、夢の中だろうが、僕は笑い、泣き、苦しみ、嘔吐することに変わりない。
僕はトランスジェンダーで、毎月ホルモン注射をおこなう。僕はゲイで、男性の恋人がいる。僕は発達障害で、僕はうつ病で……
これは誰に存在を否定されようと、まぎれもなく、僕が感じる僕なのだ。僕は存在するだけで「センシティブ」で生まれた時の性別に違和感を感じるビョーキの人なのだろうか。
もしくは、そんな言葉でカテゴライズせずとも皆が等しく感じる悩みを、皆と等しく持つありふれた人間なのだろうか。
そんなこと、正直どうだって良いのだ。本当は。僕が僕の好きな人とただ生きていければ良い。しかし、そんなどうだって良いことが僕のありふれた望みさえも絶ってしまいかねない。いちいちこんなこと言ってる場合ではない。毎回毎回同じことばっかり言っている気がする。
何回言おうと、同じ目に合う。
僕はその経験から、自分がその問題に於てどの立場にいるのかを自覚し、ものを考えることを覚えた。すべての人間がどうにか生きていけるようになれば良いと本気で思っているのだ、これでも。
どうも僕の敵は、僕に敵意を持って突っかかってくる輩なぞではなく、そいつらになんとなく連帯し、ついていく【凡庸な悪】のようだ。
思考せよ。強き者を笑い、弱き者は組織化することなかれ。
これが僕の教訓だ。さて、ヨネダ2000の「YMCA寿司」でも見よう。
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