ぼやきと妄想代理人8,9,10話

最近、完全なる趣味で、妄想代理人の作品分析をおこなっている。
妄想代理人とは、世界が認めた才能ことアニメーション監督今敏が総監督をつとめるテレビアニメーションのタイトルである。

作品分析のまとめはまた別の機会に。

ここでは、僕が作品分析をするにあたって読んだ論考に対するぼやきと、妄想代理人のサイドストーリー的ポジションにある8,9,10話の話をしようと思う。論考でも分析でもなく、面白いよ!というだけである。


1.作品論

僕は、近現代文学、現代の映画、アニメの作品分析(ここでは作品論という言葉を使う)しかしたことがないので他のことは分からないが、
というか、僕のやり方しか分からないのだが、まず、作品を見て「この作品はこういうことが言いたいんじゃないか」とか「この作品はこういう語り方をしているんじゃないか」とかぼやっと感じたことをテーマにし、ではなぜそんなことを感じたのかと考えてイメージを固めていく。
もしかしたらへんな事を言っているかもしれないが、大学のレポート程度では皆これくらいラフにやるのではないだろうか。知らんけど。

そこから同じ作品の先行研究を読んだり、その作品について言及しているものを見たりする。ここでは学術的根拠のないものも見ると思う。ネットに転がる感想もなるべく読むようにしている。皆(大部分)が持つ作品に対する印象を把握するためだ。言うまでもないか。


そして、自らの考えを広げたり構築したり強固にしたりしていく作業に入る。ここまでが長いのだが。

書きたいことは「僕流作品論のやり方」なんて仰々しいことではないし、そんなことを語れる人間ではないので、このくらいにしておく。

ジャンルは少し違うが、勉強と研究について羅須さんが大変面白く書いているのでぜひご一読を。
僕はなるほどと共感の頷きを何度もしながら読みました。感服。


2.論考ってそんなもの?

胡散臭いタイトルで申し訳ない。
論文を読むために読書をするといっても過言ではないほど、僕は論文を読むのが好きだ。
だからここでする話は、今まで趣味で読んできた論文全般に対する、全般というより、こういうのもあったよ、と軽く書くので軽く受け流していただきたい。

「論文をくだらない(面白くない)と感じたら、半分は自分のせい、半分は著者のせいだと思え」というのが恩師の教えである。
自分の読む力のなさが半分、著者の至らなさが半分という意味だ。そういうことだ。

さて。僕が一番苦言を呈したいのは「調べてきたデータだけ載せた論文」である。
それも、例えば川端康成のように作家人生が長かったり、夏目漱石や二葉亭四迷のように小説以外の作品(翻訳など)が多数あったり、芥川龍之介や太宰治のように山のような先行研究があったりする場合なら分かる。まあ分かる。

僕にはそれをおこなう気力も金も人脈もネームバリューもないから、自分にないものを持つ人は等しく尊敬する。
膨大な資料の中から目当てのものを見つけるのは、想像もできない労力が必要であろう。そういう人がいるからこそ、僕は家で寝ながら(比喩)研究ができるのである。

それを文学(その他作品、作家)研究論文と言えるのかははなはだ疑問であるが。もはや違う学問なんじゃないかな。

しかし、今敏のその手の論考を読んだ時にはさすがに驚いた。僕も今敏の著書をすべて読んだわけではないし、中にはもう手に入らない貴重な資料があったりもするが、僕でも「知ってるよ」というような情報だけを載せて、論考だなんだと言っている。

さすがに言い過ぎたかな。別に良いんだけど。
曲がりなりにも肩書に研究者とあるなら、大学(職場)の名前を出すなら、そのうえで根拠に基づく自分の考えを述べてくれと思う。

世間に評価される人は大体胡散臭い研究者だ、と誰かが言っていたが、正直妬みだと思っていた。見てる人はちゃんと見てる。腹は満たされないが。
世間受けするしょうもないネット記事を少しばかり書いて、とんでもない虚無感に陥った。アクセス数はイコール優れたものではないと、鬼滅の刃の記事が伸びて思った。
そんなこと、ここまで読んでいる変態(褒めている)には分かるか。

これ以上語るとぼろが出そうなので、もしかしたらもう出ているが、妄想代理人の話に移ろう。

3.妄想代理人のサブストーリー

この言い方が正しいか分からないが、8,9,10話は、主人公リレー形式である妄想代理人の中でも主要な登場人物が描かれない回である。
妄想代理人を知らない人は見てください。面白いです。

8話は、死んでいることに気づいていない自殺志願者の3人が、己の死に方をあれやこれやと模索するコメディテイスト。
9話は、主婦の井戸端会議を軸に様々な「少年バット被害者にまつわる話」が描かれる短篇集。
10話は、ポンコツ制作進行を主人公に追いつめられるアニメ制作現場を描いたメタフィクション的ストーリー。

8話は、ファンの間では魔の回と呼ばれているらしい。ブログを見る限りでは今自身もあまり気に入っていないようだ。緻密な世界観が特徴の今作品の中で異質と言って良い、オチに重きを置いた作品だからである。

サブタイトルの「明るい家族計画」は作中、コンドーム自販機に刻まれた言葉であり、仲良く死に場所を探す3人は、初潮を迎える前と思われる少女、ゲイの男、性機能を失っているであろう老人という「何も生まない集団」という皮肉が込められている。(参考:KON'S TONE 妄想の八「妄想文化祭」-その1-)
文字通り、何も生まない作品になってしまっているようだ。
死んでいる3人と、追いつめられたものを救うメタよりの使者「少年バット」という構図は妄想代理人において重要なのだとは思うが。

9話は、様々なスタッフが携わるのを楽しむ回。今のブログとつき合わせて見るとなおさら面白い。特に「OH」はおすすめである。
少年バットのうわさ話が進むにつれて、井戸端会議の仲間に入り切れていない若い主婦が追い詰められていくさまも皮肉が効いていて面白い。

10話。アニメ制作を行う人々を少年バットが襲うアニメ。すでに皮肉たっぷりである。しかし、ここで注目したいところはメタフィクション的構図ではなく、少年バットの被害者である。
間抜けな制作進行によって、追いつめられるスタッフは次々に少年バットの餌食になる。
7話までのメインストーリーで、少年バットに同時にやられたのは主人公月子と妙子のみである。
10話では制作陣がコンスタントに少年バットの被害にあう。メインストーリーに登場する「関連性」に固執した刑事猪狩は飛んで喜ぶかもしれない。

そこには、スタッフが極限まで被害にあっても作業を止めないアニメ業界の恐ろしさも含まれているとは思うが。そこそこ極端な。

9話は、これは主婦のマウンティング井戸端会議ですよ、という注釈が入らんばかりの演出に加え、少年バットはうわさ話によって力を増大させるという特徴もあり、妄想代理人という作品におけるリアリティがない。
しかし10話は、メインストーリーと同じようにその回の主人公視点で話が進み、最後はそいつも少年バットにぶん殴られるのだ。

真の魔の回(つまらないという意味ではない)は10話なのではないかと思ってしまう。
8話で少年バットは実体化しているのではないかと思わせ、9話で「うわさ話によってパワーを増幅させる少年バット」を描き、サイドストーリー最終話である10話で、理屈では語れなくなった少年バットを描いているのではないだろうか。
偶然の積み重ねで生まれた(らしい)サイドストーリーも全て妄想代理人を構築するうえで必要不可欠な、説明嫌いの今敏にしては、優しい3話なのではないか。

これはあくまで感想であるという保険をつけさせてほしい。何の根拠もない。

4.まとめらしきもの

どこかの誰かが、アニメには偶然がない、だのと言っていたが、そんなことはないと思う。
おそらく、実写で起こりうる撮影上でのハプニング(動物の鳴き声とか、風が吹くとか、葉っぱが落ちるとか)がアニメでは起こらないという意味であろう。
偶然葉っぱが落ちることはないだろうが、人が作るものだ、偶然なんか山ほど起こるだろう。制作上の偶然はもとより、作品を見ているうえで気づく偶然だって僕はあると思う。
映り込んじゃうことだってある。それを偶然と思うか否かは、フィクションを語るうえで実写もアニメも同じなのではないだろうか。
作品だけ見るなら、小説にも実写作品にもアニメにも偶然はないと言える。もちろんあるとも言える。
制作背景を見たら、どれも偶然だらけだ。

今は自身のブログでこう語っている。

仕事として我々が携わっているのは単なるアニメーションではなく「アニメーション作品」なのである。要するにアニメという手法を使った映像作品のこと。

引用:KON'S TONE 妄想の六「直撃の電波系」ハローCQ電波系

今の言う「アニメーション」と「アニメーション作品」の違いを僕が理解していないのが問題であったら申し訳ないが、2.で語ったような論考を書かれている方はこれを読んでいたのだろうか。
「どうして実写をやらないんですか」としょっちゅう聞かれたらしい今は、様々な場面でこの手の発言をしている。手法の違いなのであると。

またけんか腰になってしまった。とにかく、妄想代理人、面白いよ。

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