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萩原朔太郎のさびしさと宮﨑吾朗の寂しさ

映画『ゲド戦記』の主題歌で監督、宮﨑吾朗が作詞した「テルーの唄」が、萩原朔太郎の詩「こころ」から大きな影響を受けたのは有名な話だろう。
ともに【こころを何にたとえるか】が大きなキーになっているが、朔太郎の思う〈こころ〉と吾朗の思う〈こころ〉の違い、各々の思うさびしさ、寂しさについて書いていこうと思う。さらに「テルーの唄」が凝らしている工夫についても述べたい。

なお、これには学術的根拠などは含まれないのでご了承願う。

1.萩原朔太郎のさびしさ

あぢさゐの花

朔太郎はまず〈こころ〉を「あぢさゐの花」にたとえる。

ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきいろの思ひ出ばかりはせんなくて。

青空文庫

せんない・・・やるかいがない。無益だ。

ももいろよりうすむらさきのほうがせんないと思っている感覚ちょっと面白い。

夕闇の園生のふきあげ

園生(そのう)・・・植物を栽培する、囲いのある地面
ふきあげ・・・噴水

つぎに「夕闇の園生のふきあげ」にたとえる。簡単に言うと「庭の噴水」といったところだろうか。

音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや

青空文庫

むなしさ

さいごのたとえは後述するとして、このふたつの共通点は、せんない、あるかひないという、やってもやってもつかめない感覚だろう。そういうむなしさが〈こころ〉なのだと朔太郎は言っているのかもしれない。

2.宮﨑吾朗の寂しさ

かわって「テルーの唄」に書かれている〈こころ〉を見ていく。

吾朗はまず〈こころ〉を「鷹」にたとえる。

夕闇迫る雲の上 いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう
音も途絶えた風の中 空を掴んだその翼
休めることはできなくて

apple music

空に一羽で飛ぶ鷹は悲しいのだという持論を直接表現することで〈こころ〉をどうとらえているかが分かりやすくなっている。

次に吾朗は〈こころ〉を「花」にたとえる。

雨のそぼ降る岩陰に いつも小さく咲いている
花はきっと切なかろう
色も霞んだ雨の中 薄桃色の花びらを
愛でてくれる手もなくて

apple music

「薄桃色」というのは朔太郎の「ももいろ」に対するものだろう。
朔太郎はももいろに咲くことは悪くないととらえているように見受けられる。それに対し吾朗は「薄桃色に咲いたとて、愛でてくれなければ切ないことに変わりない」と言いたいように思う。自己解釈をさらに述べるとするなら、人に見られないのなら、薄桃色だろうがうすむらさきだろうが、関係ないのだともとれる。すなわち、いくら努力しようが、その芽を誰かに見つけてもらわないとないも同然といったところか。

孤独

むなしさを語る朔太郎に対し、吾朗は他者の存在を強調する。前述したように努力は見えなければ、他者に伝わらなければ意味がないのだという孤独が伝わってくる。

3.ふたりのさみしさ

「こころ」と「テルーの唄」には共通する〈こころ〉の表現がある。

「こころ」の最後には

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

青空文庫

「テルーの唄」では

虫の囁く草原を ともに道行くひとだけど
絶えて物言うこともなく
心を何にたとえよう 一人道行くこの心
心を何にたとえよう 一人ぼっちの寂しさを

apple music

どちらもともに歩む他者の存在を描く。それは「たえて物言う」ことがない。つまり、決して言葉を交わすことがなく、それがさみしさにつながるのだという。
なぜ言葉を交わさないのだろうか。結局、他者とは真の意味での対話はできないということか。
それが、朔太郎にとってはせんない、むなしさに繋がり、吾朗には一人ぼっちの孤独につながるのだ。

4.「テルーの唄」って『ゲド戦記』って

「テルーの唄」は音楽なのである。当たり前のことをここで思い出してもらいたい。すなわち耳で聴くものなのだ。だからこそ、朔太郎の詩とは違う構成になっているのである。これから〈こころ〉にたとえるものがどういったもので、それについてどう考えているのかを先に述べて、「心を何にたとえよう」となるのだ。
音楽や映画は基本的には、受け取る側がスピードを決められたり巻き戻しがきくものではないから、聞く人が一度聞いて〈こころ〉はたしかに「鷹」だとか「花」だと思わなければならない。
文字で何度も何度も自分の速度で楽しめる詩とは別物である認識があってこその構成になっているのだ。

個人的に『ゲド戦記歌集』を聞いていると、宮﨑吾朗はゲド戦記に暗い物語を感じたのではないかと思う。今までのジブリのような(主に父のやってきた)冒険活劇だったり、出会った瞬間から恋に落ちてるとか、そういう明るい話は嫌だったのかもしれない。親を殺して、俺の物語を始めようとしていたのかもしれない。
結果、それが色んなものもまれてああいうことになったとしても、僕には意味のあることに思える。
僕自身『ゲド戦記』は成功した作品とは思えない。宮﨑吾朗は何を伝えたいのか分からなかった。だが、この歌集を聞いてなんだか腑に落ちた。
『ゲド戦記歌集』に聞いたことがない人はぜひ。

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