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しあわせ



僕は映画が好きだ。
ゴダールとかフェリーニとかアントニオーニとかを観て、いろいろ語れる映画マニアではないが、自信をもって僕は映画が好きだという。

パラサイトを観て、俺はギウだ。と思った。
人間とは何かを追及するポンジュノへの愛を伝えるには、論考を書くしかなかった。

アイリッシュマンを観て、人生の課題にしている「贖罪」に一つの終止符が打たれた。
世界を慈悲深く見るスコセッシへの愛を伝えるには論考を書くしかない。

僕には創作の芽がないのかもしれない。
一時期は芸大に入って演劇の勉強(脚本)をしようと思ったこともある。
お金がなくて芸大に入ることは諦めたが、結局研究のほうが性に合っていることが分かってよかったと思う。

僕は、人間とは、世界とはなにかを知るために幼いころから本を読み、映画を観た。
人の気持ちを理解できずによく怒られたり、嫌われたりするが、芸術に触れてこなかったらもっと怒られていたと思う。

でも僕は、僕のような人間を芸術で救うことができない。
言葉は映画と同じく、すべてが比喩だ。全部が本物ではない。
だから僕は言葉を愛しながらも、言葉を疑い続けている。
そういうジレンマを感じているから、饒舌になってしまう。
でも僕にはこれしかないから、僕は僕の思ったことを言語化するしかない。


僕は、人は頑張らなくていいと思う。
頑張ることを否定しているわけでも、きれいごとを言っているわけでもない。

生きているだけで美しいとは思わない。
美しく生きる必要なんかないからだ。生きることに理由なんてない。
ましてや生まれてきたことにも意味なんてない。
意味なんかなくても、俺も君も存在しているから。

前に浮浪者の存在を否定して炎上した人がいる。
彼を批判する声として、「働きたくても働けない人がいる」とかそういう「しかたない人がいる」という意見があった。
では、しかたなくない人は殺されても良いのだろうか。
そんなことはないのだ。
自らそうなることを選んでも、頑張らない道を進んだとしても、そこに生きているんだから、生きていて良いのだ。
生きていて良いという言葉すらおかしい。
生きることに許可なんて必要ない。

頑張る人だけが生きて良いなんて、そんなことはない。
権利は本当は誰にでもあるのだ。
僕はたぶん、明日殺されたとしても、文句は言わない。
自殺しそうになったこともある。
自分の欲を制御できなくなって、自ら貧困に足を突っ込んだこともある。
だからこそ、生きていたいと思う。

嫌いな人はいる。たぶん、たくさんいる。
だけど僕はその人の存在を受け入れる。
許す必要はない。知ればいいだけだと思っている。
彼の人生が僕の手中にあるわけではない。

スコセッシ映画の根底にある「生きていることの罪」という考えが
僕は大好きだ。
皆等しく罪を抱えて生きている。過去の過ちを自覚する時が来たら、
それは未来の行動でしか償うことができないのである。

頑張らない人も頑張る人も、頑張らない人を卑下する人も、
みんな罪人だと僕は思っている。

もちろん僕も、大罪人だ。
だからこそ、自分の人生は自分で決めたいし、
幸せになるしかないと思うし、
他人の人生をとやかく言う権利はない。

みんな、全員、しあわせになろうな。
と僕は思う。

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