3-1の話

私は石鹸をデパートで買っている。それは帰宅後の手洗いのためにしか使わない。なぜなら香りが強く、香水と変わらない匂いをまとうことになるからだ。接客業ではないので香水を咎められることはないが、すべてにおいて無難かつ無味無臭をモットーに会社で過ごしているため、少しの変化さえ何か言われるのではないかと緊張してしまう。そんなのはごめんだ。私にとって良い香りなんてのは家で楽しむくらいで十分だ。

今日はいつも買っている石鹸屋からダイレクトメールが届いた。ハガキにはどこか知らない国のモノであろう現実味のない花畑と、誕生月を祝うメッセージが添えられている。特典として提携カフェでのちょっとしたケーキをもらえるそうだ。このバースデーケーキを一人で食べる姿を想像して、細く長いため息をついた。

何歳になったかではなく、”この歳もまた去年と同じように過ごしていること”が問題なのだ。まるで排気くさい区画を息を止めて歩き去るように、シンプルにやり過ごしてきた。そうした姿勢に比例して、年々息を止める時間も長くなってきた。今年は新しい風を入れてみてもいいのではないだろうか。手始めにシャワーを浴びいつもより入念に身繕いをする。支度が整い家を出る前にかつて気が大きくなった時に買ったきりだったサングラスをかけた。タクシーを呼び繁華街へ向かう。

ダイレクトメールに記載の提携カフェへ赴き用件を伝えたところ、ハガキを確認した店員は戸惑った顔と共にカウンターの裏へ行ってしまった。誰もこんな特典のときにしか出ないようなバースデーケーキなんか頼まないのだろう。

「申し訳ございません。ちょうどそちらに記載のケーキを切らしておりまして、何か代わりのモノを用意させていただきますね」代わりに現れたオーナーは人生で何百回と見せてきたであろう申し訳なさそうな顔で謝罪した。教科書に乗せても遜色ない面持ちだった。そんな完璧な受け答えに思わず私も
「あるかどうか電話で確認すべきでしたね、お手数を取らせてしまってごめんなさい」と、つられて言葉がスルスルと出てくる始末だ。本当はケーキなんてどうでもよかったのだ。一人で過ごすことに立ち向かえればなんだってよかったのだ。

「アレルギーや苦手な味付けなどはございますか?」向こうにとっては当たり前なのだろうが、そんなちょっとした気配りさえ嬉しく気を良くした私は彼に少しの無茶を頼んだ。「あなたが誕生日に食べたいものを」人の目を見て何かを頼んだのは久しぶりだったし、私が普段会話するときに人の鼻ばかり見ていることにも気づいた。

出てきた料理は凄まじく辛い東南アジア料理の何かだった。辛さで記憶が飛んでいる。料理は恨みでもあるのかと思うほど辛く水を飲めば飲むほど汗がでる。前髪が張り付くほどの汗を流していることに気づいた店員はおしぼりを2つと、滝汗の原因となったオーナーを連れてきた。「大変申し訳ございません。そうですよね。」なにがそうですよね、だ。「少し冷房を強めてきますね」の一言と共にオーナーは再びカウンターの裏へ走って行った。店員は逐一コップに水を注ぐのを諦め、ピッチャーごとテーブルの上に残していった。

私は冷えた汗と張り付いたシャツで体を凍らせながら、辛いだけで何の情報もない料理を食べ進めた。そういう罰なのかとさえ思っていた。お会計では善意が失敗した罪悪感を帳消しにしようと頑張るオーナーと揉めた。結局私はドリンク代だけ払い、腫れ上がった唇で丁寧に感謝を述べたあと、逃げるように店を出た。オーナーのアジア料理は胃に入っても主張を続け、私の体にかつてないほどの活力を送り続けた。

繁華街を抜け人通りも少し減ってきたあたりで自分を取り巻く全てがバカバカしくなり、私は走り始めた。沸き続ける活力が果てるまで、めちゃくちゃに走り込んだ。喉がヒュウヒュウと鳴る。蛇口をひねったかのように流れ出る汗が服に染み渡っていく。視界の端がぼやけていく。けたたましい足音に気づき、振り向いていく顔を次々追い抜いていく。暴れるカバンが体のそこかしこにぶつかろうと、ほどけた靴ひもが地面を打ち付けようとひたすら走りつづけた。今日は間違いなく人生で一番の誕生日だった。

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