0604+0605

0604
先日、友から東京赴任の知らせを受けたこともあり、できるだけ遊ぼうとなった私達は再び京都で会った。あちあちの友情が形を変えることにお互い気まずかったのか友も私もつとめて普段どおりの会話を続けるなどした。京都駅周辺をあてもなく歩きながら、かき氷屋で杏がたくさん使われたかき氷をむさぼろうという私のリクエストが採用され、京都駅から電車で今出川駅まで移動した。今出川駅を降りてすぐ目に入ってきた御所に入り、広々とした空間を満喫した。喧騒から離れたすばらしいところだね〜と言い合っていたら、全てを否定するような掘削工事の音が城垣の内側から鳴り響いてきて、思わず笑ってしまった。

御所は(当たり前だが)歩く歩道がないので、延々と小石が敷き詰められた敷地内を歩く羽目になった。汗もかき、日差しが強くなってきた頃、友から”かき氷の前に一度お昼ご飯を食べよう”と軌道修正を提案され、賛成する。小さな蕎麦屋の前で待ちながら、通り過ぎる車のメーカーや車種名を当てずっぽうで口にした。程なくしてカウンター席へ通され、私たちは横並びで座る。私はとろろそばを、友はすだちそばを頼む。

二枚目のざるそばを頼んで二人で分けよう、という誘いに乗り、田舎そばを頼んだ。丁度とろろそばを食べ終えた時に店員から差し出されたそば湯が手を付ける前に引き戻されてしまい、一瞬変な顔をしてしまった。出された田舎そばを各々のつゆに浸しながら食べる。器を交換して食べるのはさすがに少しはしたなさを覚えたけれど、一杯のかけそば(母・娘・息子でそばを分け合う話、感動を呼びすぎていろいろな不祥事が暴かれ、結果的に大炎上した昭和の話)と比べたらマシと思えば店主の心も温まるはずだろう。

蕎麦屋で会計を済ませ、再び私たちは歩き始めた。かき氷屋へ向かう途中で桃と甘夏の寒天が入った羊羹を買った。「家に帰ったら食べよう」と言われたとき、うまく返せずなんとも言えない思いが去来した。

かき氷屋に入店し、お目当てのあんず氷を頼んだ。なんとなく選んだ追加トッピングのきなこアイスは、あんずの酸味を程よく打ち消し、互いの良さを高めていた。食べている途中から明らかにしんどそうな表情を浮かべる友が可哀想になり、きなこアイスを譲ると深く感謝された。

店を出た私たちは気がついたら神社の境内へ迷い込んでいた。一体どのルートを歩いたらそんなことになるのだろう。友は脳内にあるコンパスがしっかり北を指している人なので、どこを歩いても平気だという。まったく羨ましい。

境内に設置された立て看板から世界遺産だの文化遺産だの仰々しい言葉が並んでいたが、ここはおそろしく閑散としている。なにかの催し物が行われた後だということがわかるが、人っ子一人いなかった。静かな並木道を歩き、各所に用意された御手水で手を清め、さざれ石の存在に疑問を投げかけた。途中、しめ縄が巻かれた大木の前で額を地面につけて祈る人を見かけた。その姿を見た私が何も考えず「コンタクトを落としたのかもしれない」と茶化したら友は声を上げて笑った。友を笑わせることが大好きだが、人の祈りを茶化す行為は金輪際やめよう。

神社を抜け、商店街を抜け、私たちは鴨川へとたどり着いた。デルタと呼ばれる中洲のような場所へ渡り、晴れ渡った空を眺めた。芝生でサンダルを脱いで寝ころんでいると散歩中のおじさんが「良いですねぇ〜」と話しかけてきた。若者たちが各所で集い、穏やかな歓声をあげている。私は友の腹を枕にしながら、人生でも指折りの素晴らしさを感じた。何もかもから切り離され、ただ在ることだけを感じるのがこんなにも気持ちいいものだとは。

寝転がることにも飽き、再び歩き始めた私たちは、鴨川の川沿いを歩きながらいつの間にかしりとりをしていた。食べ物だけで繋げようという制約は早々に緩められ、助詞や概念が登場するしりとりとなった。途中、ツから始まる食べ物がなかなか出てこない友が発した「ツナニソワ」がツボに入ってしまい、涙が出るほど笑った。何度もルールを捻じ曲げてくる友が苦し紛れに発した単語だったので、てっきりでっち上げた言葉だと思い、マスクとメガネを外して涙を拭いて歩くほど笑ったのだが、翌日、それは実在するサラダの種類であることが確認され、私は赤っ恥をかいた。涙がこぼれ落ちるほど笑っていた私の愚かで幸せなさまよ。

プランもなく歩き続けた結果、夜ご飯にしっくり来る店が見つからず、延々と先斗町や木屋町を歩く。最終的にヘルシー志向のお高めなレストランへ入った。そこはホテル内に設けられたカフェ・バー併設のレストランで、普段の私なら近づきもしないようなところだった。通された席から見える中庭に設けられたテラス席が気になったので「あの席はバー専用か、ホテル客の為のものですか?」と尋ねたところ、席を移してもらえることになった。「なんでも聞いてみるもんだね」と友が言った。

中庭に設けられたテラス席は日が落ちて冷えた空気が下から上へ通り抜けるすばらしい立地で、二箇所に設置された焚き火があたりのムードをやたらめったらに高めている。臆面もなく隣り合うようにソファへ腰掛け、出された料理を獣のように食べた。友はハーブティーに浮かべられたクコの実をすべて食べるために、コップの中の氷を移し替えるほど獣に近づいていた。あまりにも熱心に食べているので「そんなに美味しいんだね」と言うと、スプーンで少しだけ掬ったクコの実を私に食べさせてきた。私は友のそういうところが本当に素晴らしいと思う。

料理を食べ終えた頃、友が服の中に手を入れゴソゴソと動かしていたので理由を尋ねると、何かを隠すように両手を塞ぎ「ねぇ見て、木の実が入ってたよ。ずっと身体にひっついて気持ち悪かったんだ」と言い差し出した手を開くと、そこには小さな甲虫が居た。手のひらの上にあるのは木の実ではない事実を指摘したら、友は声にならない声を上げながら虫を払い落としていた。友のそういうところは本当に素晴らしい。その後も焚き火の前で写真を撮ったり、店内で談笑する男女が披露するお会計を誰がどう担当するかの譲り合いを眺めていたらあっという間に閉店時間が迫っていた。滞りなくお会計を済ませる。

店を出た私たちはサウナの梅湯へ行き、その日にかいた汗を流した。帰宅後、友の家でストレンジャー・シングスを観た。エルやホッパーがディスプレイの向こうで大変な目に遭っているのを横目に私たちはストーリーを追う努力を放棄し、眠ることを選んだ。

0605
珍しく私が先に起きたのでそっと歯を磨きに行く。お互いまどろみが消えないまま時間の流れに身を任せた。シャワーを浴びた後、友のiPadに入っているSpotifyでJPOPヒットナンバーのみで構成されたリストを再生し、意味のない会話を続けた。シークバーを動かした先に宇多田ヒカルの初恋が目に入り、何の気なしに再生すると友は立ち上がり、体を揺らした。

家を出た私たちは岡崎公園へ向かった。お目当てのフリーマーケットはお昼を過ぎていたこともありピンとくるものも無く、仕方なく出店として営業していたチャイ屋で素焼きのコップに入ったチャイを頼み、素焼きのコップを叩き割った。真夜中のサーカスを謳う集団が歌と演奏を披露していた。”人はいつか死ぬ、墓地・墓地・墓地、ひとり墓っ地”とメメント・モリを賑やかに歌っていて「藤田和日郎が好きそうだな」と思った。

ベンチに腰掛けながら、公園内で思い思いに過ごす人たちを眺める。キャッチボールをしていた子供を眺めながら、友は「今からあの樹の下へ行ってさ、キスしようよ」と冗談を言うので「あそこの子どもたちを集めてね」「耳まで舐め始めたら間違いなく子どもは泣くだろうね」「そりゃ耳を舐められてるおじさんが白目剥いてたら泣くよ」と会話を続けた。友はンフンフと変な声をだして笑った。

再び目的もなく街を歩き続け、美味しいカヌレは存在するのかという疑問を解消させ(存在しないことが証明された)、私たちは最終的に京都駅へ戻ってきた。一日中歩き回った疲労感は私を深く眠らせた。

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