2-24の短い話

5ヶ月ほどの無職期間を終え、私は免罪符を発行する仕事に就いた。免罪サービス社が免罪窓口で発行する仕事だ。不意に誰かと顔を合わせないようにと配慮に配慮を重ねた結果、誰もが免罪に来たのだなとわかるような辺鄙な場所にある。あなたの思う免許センターの立地とだいたい一緒だ。定期的に届く免罪ハガキを手に人々は赦されにくる。

顔が見えないように区切られた窓口から差し出されるハガキと書類に目を通し、不備が無いかを確認する。2割くらいの人がそこで初めて己の不備に気がつく。中には心ない言葉を投げつけてくる人もいる。この日のために有給を取ったとか、赦されるのになぜこんなややこしいことをさせるんだとか。私はここで赦しをめぐる矛盾した感情を学んだ。

規約の問題で彼ら・彼女らが何に許されようとしているのかを明かすことはできない。一度、他所の免罪窓口担当者が面白おかしく彼らの過ちを本にした。恐ろしく売れたのち、生涯にわたって口にしてはならないとされたのだ。おかげで鉛筆一本紙一枚も持ち込むことができない。パーテーションの中で必要書類一式を確認し、話を聞く。告白人が言葉を詰まらせた時だけ、言葉の先を次ぐような言葉をかける。意見を求められても答えてはいけない。赦しにあたるものに人間性は不要なのだ。

休憩時間はきっちり1人ずつとるようになっている。誰かと共に昼食をとると業務について口にしてしまうからだ。話すのが得意ではない私にとってこれほどありがたいことはない。電子レンジと給湯器と自販機が置かれた休憩部屋は天井近くに窓が一つあるだけの質素な部屋だ。毎回この部屋に来るたび仕事場に窓が無いことを思い出してしまう。あるいはたった一つの窓が私たちが従事する赦しそのものであるのだと。

仕事が終わっても、赦しから離れることはできない。行きつけの店をつくることは避けるようにいわれているし、書き残すのはなおさら禁じられている。守られた環境と引き換えに人間性を放棄するのがいやで、私は初日からこのように雑感を文字にしている。きっと本にした人も、最初は私と同じような動機だったのだろう。私が私を赦さなければ誰が赦してくれるのだ。

明日はバーにでも行ってみようか。思えば私は自分が酔うとどうなるかすらわかっていない。まずは強い酒を買ってこよう。映画でも観ながらめちゃくちゃに酔っ払ってしまおう。ゆっくりと何かが下っていくような感覚を胸に私は部屋着のまま家を出た。

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