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「アンロック・セル -脳10%神話-」第一話
あらすじ
幼少期、謎の武装集団に自宅を襲撃され、無惨にも家族を殺された天若ヒガサ。彼は齢十にして復讐を強く心に誓った。しかし、組織の正体や動機が不明のまま、七年間何の手がかりも掴めずにいた。ある豪雨の夕刻、ヒガサはついに家族の仇である組織の一員と遭遇する。だがその時、突如として一筋の雷が彼の脳天に直撃。生と死の狭間で少年の脳は覚醒し、常軌を逸した力を手に入れる。その力を危険視した政府は理不尽にもヒガサに終身刑を言い渡した。刑罰を免れる方法は特脳軍情報局という機密組織へ入局し、脳機能が覚醒した危険人物や組織から国民を守ること。ヒガサはそれを受け入れ、復讐の念を胸に秘めながらも正義の道を歩むことを決意する。
補足
描きたいメッセージ
ヒガサが抱える復讐と正義の葛藤
無知は罪であるということ
設定と背景
都市伝説「人間の脳は100%の力を発揮していない」を題材に、臨死体験を通じて脳機能の制限を解除し、特殊能力を発現する人々の物語。主人公は復讐と正義の葛藤を抱えながら強く成長してゆく。解除率は主に三段階の壁がある。
リリース 解除率40% - 飛躍的な筋力の増加
バースト 解除率60% - 五感に通ずる特殊能力の発現(例:視覚なら視力や動体視力の飛躍向上)
オーバー 解除率80% - 超能力の発現(例:未来視や遠隔透視)
簡易プロット
・序盤
主人公は家族を犯罪者に殺され、その復讐を誓う。捜査の過程で臨死体験をし、リリース状態へ到達、飛躍的な筋力増加を果たす。犯罪者との戦いでバースト、オーバーと段階的に能力を強化し、家族の仇である組織に迫る。
・中盤
主人公が敵組織を追い詰めた時、解除率100%の壁「アンロックセル」に成功する。アンロック(解除)セル(細胞)という意味を持ち、全能力の発現とアカシックレコードへのアクセスを可能とし、この世界が仮想シミュレーションであることを知る。本当の敵は家族の仇ではないことに気づき、メインストーリーを仇討ちから現実世界への帰還に切り替え、敵組織と協力して政府の陰謀に挑む。
・終盤
敵はVWIS(仮想世界諜報局)。現実世界からログインしてシミュレーションを管理する団体。今までの敵味方関係なく協定を組み、仮想シミュレーションを強制終了させ、現実世界へ戻る。現実では何千人もの人々がシミュレーションに強制接続されていたことが明らかになり、大事件として報道される。元々は人口増加による仮想世界への移住プロジェクトが発端だったことが分かる。
・エンディング
主人公は平和な生活に戻るが、交通事故に巻き込まれそうになった時に再び脳の制限が解除される感覚を体験する。この世界ですら仮想世界かもしれないという不安を抱えながら物語は幕を閉じる。
第一話
2035年、冬、東京。
最悪天候。
微塵の遠慮もなく降り注ぐ豪雨の中、ピカっと光っては、ゴゴゴッという鈍い音がしばしば轟いている。
雷は、光ってから音が聞こえるまでの時間でおおよその距離が割り出せるが、それで言うとかなり近い。
かろうじて車は走っているが、歩道を歩いている馬鹿はせいぜい一人。
「いやぁ、もう、なんかもう、ここまで濡れると、気持ちいいです。うん。超気持ちいい」
空模様とは異なり、能天気に傘も差さず走ろうともしない男子高校生。
もはや開き直っている黒髪の彼は、天若(てんじゃく)ヒガサ。
普段から鍛えているため、体格はそれなりに良く、顔は上の下といったところ。
まぁ、悪くはない。
これほど天候が荒れるのは、何十年、下手すれば何百年ぶりだとテレビで騒がれていたほどだった。
担任教師から早く下校するよう再三忠告を受けていたにもかかわらず、たかが雨だと調子をこいて友人と教室でダラダラ過ごした結果がこれ。
獣食った報いとは正にこのことだ。
しばらくすると、ヒガサは後ろから近づく〝ピシャッピシャッ〟というハイテンポな足音に気づく。
音が聞こえ始めてすぐ、勢い良く背中に柔らかい何かがムニュッと貼りつき、ヒガサは前のめりに体勢を崩しかけた。
が、陸上部で培った強靭な足腰と体幹で、難無く持ち堪える。
何事かと首を後ろに捻ると、ずぶ濡れの少女が抱きついているではないか。
「だ、だれ!?」
身に纏う制服から察するに、他校の生徒のようだ。
少女は顔を上げて、
「助けて……」
ズルい上目遣いで訴えかけてくる。
大抵の男はこれでハートを射抜かれるだろう。
もちろんヒガサも。
「か、かわ、じゃなくて! 助ける!? 何から!?」
もっともな疑問。
「もう……死にたい……」
と、矛盾をこぼした少女は、再びヒガサの背に顔をうずめ、ギュッと腕の力を強めた。
そんな彼女を見るヒガサの視線の先、曲がり角から男が飛び出し、
「いたぞ! こっちだ!」
声を荒げてこちらに走ってくる。
コートを羽織り、キャスケットをかぶったその身なりは、日本ではあまり見かけないコーディネート。
理由はさておき、少女が何から逃げているのかをヒガサは理解した。
助けてって言ったり死にたいって言ったり、情緒ヤバいだろこの女!なんて無粋なツッコミはせず、ヒガサは自分に巻きつく少女の手を優しく解き、躊躇うことなくお姫様抱っこして走り出す。
少女は唐突な胸キュンシチュに恥じらい、
「ひゃっ!」
愛くるしい声を漏らした。
互いが雨に濡れているせいか、服と服が、肌と肌が、吸いつくように密着している。
内心興奮しながらも平静を装うヒガサは、足の回転率を上げながら、
「よく分かんねえけど、とりあえずあいつらを撒けばいいんだな?」
自分の腕の中で顔を赤らめる少女に問う。
コクリと頷いた少女は、目頭を手でひとこすり。
追手は三人、男。
とはいえヒガサは陸上部で短距離と長距離、両方が得意分野。
少女一人くらいの重りならなんとかなる。
いや、なんとかする。
一歩一歩力強く前を向いて走る青年を仰ぎ見た少女は、素朴な疑問をぶつける。
「どうして何も聞かないの?」
「そりゃあ可愛い女の子の頼みを断るわけにはいかないっしょ! それにあんたの目は、本気で死にたいって思ってるやつのそれじゃないし!」
優しくもたくましい目でヒガサは言い切った。
と思いきや、
「あ、もしかして本気で死にたかった!? 今俺余計なことしてる!?」
自信があるのか無いのか分からん男であった。
「ううん。そんなことないっ」
と少女は首を横に振った。
どこか抜けていて、それでいて頼もしい、そんなヒガサの純粋さが心地良かったらしく、少女の表情がほころぶ。
行き当たりばったりで逃げ続ける中で少女は、
「あっち!」
と言っては、
「やっぱりこっち!」
と言ったり、
「こっちもダメ……次はあっち!」
指差す方向が二転三転。
何か考えがあるのだと信じて、ヒガサは足に徹した。
が、結局、
「やっべ! 行き止まりじゃん!」
狭い路地裏に迷い込み、進む道が見当たらない。
彼女の言うことを当てにするべきではなかったと、ヒガサが後悔しかけた時、
「そこ! 登って!」
次の指示が出された。
少女が指差したのは、ビルの外側に設けられた非常階段?のようなもの。
簡単に侵入できないよう二階部分から設置されており、登るのは容易ではない。
しかし後がないため、ヒガサは彼女の指示に従う。
「ちょっと揺れるけど我慢しろよ!」
そう言ったヒガサはお姫様抱っこしていた少女をクルンとひっくり返し、足を前へ、頭を後ろにして担ぎ上げた。
反動でひるがえりかけたスカートを、少女が慌てて抑える。
少し後ずさって助走距離を作ったヒガサは、驚異的な脚力で地面を蹴り、忍者の如く壁を二、三歩走って階段の手すりの支柱を掴むことに成功。
片手ながらもグッと手繰り寄せ、無事に登ったが、
「つーかこれ屋上まで行くの!?」
めちゃくちゃしんどいし、逃げ場無くなるんじゃね?状態にヒガサが焦り始めた。
「大丈夫! 急いで!」
担ぎ上げられた少女がヒガサの背中をペチペチと叩いて急かす。
「うぉぉおおお! いつものトレーニングに比べればこれくらいい!」
言われるがままにヒガサは上り続けた。
段数にして概ね200段。
終盤は気合い以外のなんでもない。
ヘトヘトになりながらも屋上に到達したヒガサは、少女を肩から降ろした。
追手はそこそこ体格の良い大人、持久力ならヒガサに部があるはずだ。
と思えたが、三人ともすぐに追いつき、
「やっと追い詰めたぞ。ちょこまか逃げやがって」
息を切らすどころか安定した発声ができるほどの余裕があった。
「はぁ……はぁ…………マジかよ……」
ヒガサは膝に手をついて息を整えながら呟いた。
ちなみに負けず嫌いな彼は、追い詰められた事よりも、男らがバテていない事に悔しがっている。
少女は怯え、ヒガサの後ろにササッと退避。
息が整ってきたヒガサは、自分の足元から男の顔へ視線を移し、気づく。
「ちょっと待てよ。あんたら…………」
脳裏に焦げるほど焼きついた凄惨な記憶が蘇り、身体が震え出す。
これは恐れからくるものではない。
運命的な再会を果たした嬉しさからくる歓喜の震えである。
「七年前、俺の家を襲ったのを覚えてるか……?」
震えた声で、確認する。
「はぁ? 七年前? そんなの覚えてるわけねぇだろ。何だこのガキ。お前ら知ってるか?」
前の男が後ろ二人に問いかけた。
すると、片方の男が、
「七年前っつったらあれじゃないっすか? ボスの親父さんが、あの……」
「ん? あぁ! 思い出したぞ! 天若だ! お前あの時取り逃がした一匹か!?」
一応、覚えてはいた。
覚えていないよりは幾分かマシかもしれない。
しかし態度と言い、口ぶりと言い、ヒガサの堪忍袋の緒をノコギリでガリガリと削ってゆくかのよう。
「おいおいこんなことあるのか!? 俺らはお前を逃がしちまったせいで今もこんなくだらねぇ仕事をさせられてんだ! もしあの時お前を殺せてりゃ……俺らは今頃ボスに認められて…………」
反省の色は無色透明。
くわえて、聞いてもいないタラレバの話。
「こんなの運命以外の何物でもないだろ! こいつの首持って帰ったらちょっとは出世できんじゃねぇか! なぁお前ら!」
大の大人が三人とも、高らかに笑って勝手に盛り上がっている。
しかしヒガサはその三人を上回る勢いで、
「かっははははっ! そっかあ! これが無情かぁああ!」
腹を抱えた。
彼の堪忍袋の緒は完全に断ち切られていたのだ。
人間は怒りを通り越した時、呆れると言われている。
しかし今のヒガサは、呆れをも超えた状態。
それが無情。
相手を同じ人間とは認識できなくなり、一切の情が湧かなくなるのだ。
ずいぶんハイになっているようだが、彼なりの無情。
さすがに男たちも少年の異常さに引いている。
ひとしきり笑い飛ばしたヒガサは、濡れた髪を掻き上げ、
「ふぅ。もうどうでもいいや。とりあえず全員ぶち食らわす」
右手で胸をドンッドンッと叩いたヒガサはファティングポーズをとった。
彼はここぞという時、この癖が出る。
心臓の音を感じ、己を鼓舞するためだ。
「ほう。何か知らんが度胸だけは認めてやるよガキ」
男は指をポキポキと鳴らしながら前進。
少女は邪魔にならぬよう、さらに後ずさる。
一対三。
子供対大人。
ちなみにヒガサは格闘技の経験など一切無く、中学時代に何度かショボい喧嘩をしたくらい。
ただ、正義感と自信は誰にも負けないだけ。
斯くして、ヒガサにとって圧倒的に不利な闘いの火蓋が切って落とされようとした刹那。
鋭利な閃光が空を切り裂き、瞬く間に全員の視界を白一色に染め上げた。
皆の思考と時間が停止したのも束の間、凄まじい轟音が鼓膜を揺らし、脳を揺らし、骨をも揺らす。
大気に蓄積された負電荷が、大地の正電荷を目掛けて放電する大自然の神秘。
運命と言うべきか、必然と言うべきか。
何の因果か、様々な歯車が寸分違わず噛み合い、美しく青白い雷がヒガサの脳天に直撃したのである。
直撃雷を受けた場合の生存確率は約20%、ほとんどが死に至る。
しかしそんな低い確率をこの正念場で引き当てる豪運の持ち主が天若ヒガサという男。
天を仰ぎ、白眼をむき、口から煙を上らせながらも、彼は倒れなかった。
そしていつしか、彼の額から首元にかけてシダの葉のような紋様が浮き上がっている。
これは雷に打たれた際、皮膚の表面を電流が枝分かれしながら走ってゆくことで刻まれる、電紋という熱傷である。
その痛々しい傷は、橙色の強い光を放っている。
雷撃は神経を伝って体中に染み渡り、鼓動はいつになく激しい。
総身に張り巡らされた管を通る緋色の液は、まるで意志を持ったかのように活発化し、みるみるうちに体温が上昇してゆく。
頭頂部から爪先に至るまで、全ての身体機能に力が漲っているのが分かる。
溢れ出し、使い切ることができないほどの力量。
年収が億を遥かに超える大企業の社長が、お茶を一本買う時の金銭感覚に似ている。
金を、力を、使っているのか自分でも分からない程度の微々たる消費。
元あった貯蓄の膨大さゆえの感覚の歪み。
落雷というイレギュラーが全員の意識を掻っ攫った時間は約五秒。
時間にしてみれば短いものだが、目の当たりにした者たちからすれば途方もなく長いものである。
「お前ら! 突っ立ってねえでやるぞ!」
ようやくと言っていいのか分からないが、初めに正気を取り戻したのはリーダー格の男。
後ろに控える二人はその声を聞き、我に帰った。
雷に打たれた人間がそう簡単に動けるはずがない、と安易に考えた男は、一歩踏み出して拳を引き込んだ。
男の殺意がヒガサに向けられた瞬間、顔に刻まれた電紋が橙から紫に変色。
同時に、血走った眼球がギロリと動き、黒眼が姿を現す。
狂気じみた少年と目が合った男は言い知れぬ恐怖を感じたが、構わず拳を押し出した。
しかしその恐怖は無視すべきではなかった。
迫りくる拳を容易に避けたヒガサは男の懐に潜り込み、左ストレートをみぞおちにめり込ませたのだ。
あくまでもカウンター、相手の攻撃を避け、間髪入れずに繰り出す攻撃ゆえ、助走はほぼ無い。
にもかかわらず、彼の放った一撃は凄まじく、大の大人が人形のように宙を舞うほどの威力であった。
転落防止柵に受け止められた人形は気を失い、ぐったり。
この時、ヒガサは自分の身体を制御できなくなっていた。
自分の中にある別人格に、身体の制御権を奪われるという奇妙な感覚に陥っていたからだ。
いや、別人格と言うより、影。
陽の光に当てられてできた自分の影だ。
解離性同一症、いわゆる多重人格の症状に似ているが、彼は今まで今回のような経験をしたことが無い。
また、多重人格は十歳以下で発祥するケースが大多数と言われているため、このタイミングで症状が出るとも考え難い。
言うなれば、主人格であるヒガサと、副人格である影の、身体制御権を賭けた脳内戦争。
そして今は影に主導権を握られており、ヒガサは劣勢。
残された二人の男は、
「え? なに?」
「なんだ!? なにが起きた!?」
飛ばされた人形を見てあたふたしている。
その隙を逃さなかった影は、男のジャケットの内側に手を滑らせ、拳銃を奪取。
そして瞬時に男の額に銃口を向けて引き金を引く。
頭の具が飛散すると思われたが、
「ぐぉぉおあああああ! てめぇぇえ……!」
弾丸は男の太ももを貫いていた。
激痛に耐えかねた男は跪いて、太ももに開いた穴を必死に押さえている。
豪雨で薄まり、淡い桃色になった血液が足元に広がってゆく。
どうして男の頭へ向かっていたはずの銃口が、太ももに方向を変えたのか。
それはヒガサ対影の脳内戦争に動きがあったからだ。
終始、身体を制御できていなかったヒガサだが、発砲する寸前に右半身の制御権を影から奪還したのだ。
そして男の額をめがけて発砲しようとする左手を、なんとか右手で押さえつけた。
結果、銃口が大きくズレたのである。
「くそっなんこれ!? 止まれ! 殺すのは違ぇ!」
依然として、身勝手な左手を右手で抑制しようと試みるヒガサ。
「止まれ! 止まれよ俺の左手ぇぇえ!」
周囲からすれば、疼く左手を封じんとする、中二病を患った重症患者にしか見えない。
だが本人は至って本気。
そして再び、中二病患者へ殺意が向けられる。
「貴様ぁぁああ!」
仲間が足を撃たれたことに過剰な反応を見せたもう一人の男が即座に拳銃を構えたのだ。
しかし影の瞬発力は人知を遥かに超える速度。
一瞬にして、男が構えた銃を左足で蹴り上げて脅威を取り除いた。
そしてすかさず、銃を手放して怯んだ男の額に銃口を向ける。
が、すぐにそれを右手で押さえ込む。
内臓に響くほどの銃声が鳴り渡るも、銃弾は男の耳をかすめて荒れた空へ消えてゆく。
発砲を諦めた左半身は拳銃をポイッと投げ捨て、今度は男の膝に高速のキックを繰り出した。
これは抑えようがなく、
「う゛ぐぅぁぁああああ!」
クリティカルヒット。
男の膝は、絶対に曲がってはならない方向にポッキリ。
負担を和らげるために、折れた片足を上げるその姿はさながらフラミンゴ。
その後、痛みに耐えかねてジェンガのように崩れ落ちるフラミンゴの顎に、非情な左足がダメ押しの膝蹴り。
これもまともに食らった男は頭をグワンとひるがえし、キャスケットを飛ばしながら仰向けに倒れた。
残るは太ももから大量の鮮血を垂れ流して跪く男。
「分かった! 悪かった! でも俺は本当はこんなことしたくなかったんだ! 許してくれ!」
宿題をしてこなかった中学生の言い訳くらい薄っぺらく滑稽な命乞いを披露。
すると左手が、グーパーグーパー手の平を開閉した後、握り拳をブンブンと回し、宙に円を描き始めた。
どうやら影が操る左半身は、男を殴りたくて仕方ないようだ。
しかしそれはヒガサも同じ。
拳銃でなければ死ぬことはないだろう。
そう考えたヒガサは、男の処遇を影に委ねることにした。
影もヒガサの意思を察したようで、左手を力一杯振りかぶり、
「待て待て待て待て――――」
男の鼻に会心の一撃。
無論、男は数メートル飛ばされ、気絶。
右手に拒まれなかったためか、左手がずいぶん生き生きしている。
しかしここで、ヒガサの脳内で巻き起こる影との身体制御権を賭けた闘いに転機が訪れる。
電紋からは橙が消え、紫一色に染まったと同時に、再び右半身の制御権を影に奪われたのだ。
こうなっては左手を右手で押さえ込むことは当然、全身の抑制ができない。
とは言え、敵は三人とも無力化したのだ、暴れる理由などあるまい。
と、呑気なヒガサは少しホッとしていた。
だが事態はそんな単純な話ではない。
次に影の眼光と電紋が照らすのは、腰を抜かした、か弱き少女。
そう、影には敵や味方という概念が存在しないのだ。
着実に少女の元へ歩みを進める影。
「ね、ねぇ!」
少女の声は届かない。
「ねぇってば!」
届く気配が無い。
厳密に言うと、ヒガサの意識には彼女の声が届いている。
だがしかし身体の制御が効かない今は、その声に応えられないのだ。
影を殴って制御権を奪還する、なんて簡単な話ではなく、意識下での争奪戦ゆえ、何をどうすれば良いのかさっぱり分からない。
先ほど、右半身の制御権を奪還したのもただのまぐれ。
そうこうしている内に、少女の目の前まで歩み寄った影は、微塵の躊躇いも無く右手を振り上げる。
が、その時、
「なーにやってんのぉぉお!」
何者かの叫び声が聞こえたと同時に、影の右横腹に強烈な衝撃が走る。
その威力は常軌を逸しており、車に跳ねられたかのような重い一撃。
相当なダメージを食らったものの、影はクルンと身体を回転させて上手く受け身を取った。
これは影ゆえの身体能力である。
ヒガサが身体を制御していたのなら今頃無様に倒れていたことだろう。
そしてすぐさま振り返り、脅威の正体を確かめる。
少女の前には、
「ったく、女の子に手を出すDV男なんてモテないよ?」
暴風にもかかわらず、傘をさして雨を凌いでいる男が立っていた。
黒いスリーピーススーツに、ブルーシルバーの髪、整った顔立ち、絵に描いたようなイケメン。
黒地のネクタイには、縦に一本白い線が通っている珍しいデザイン。
どうやら影は、どこからともなく現れた男に強烈な蹴りをお見舞いされたようだ。
とはいえ影は戦かず、のっそりと立ち上がって男を睨みつけた。
顔に刻まれた電紋が放つ紫の光は、さらに濃く、眩さが増している。
右足を後ろに引いて踏ん張った影は、恐ろしい速度で男をめがけてラグビーを彷彿とさせるタックルをかます。
あまりの速さに男は反応できず、腰周りをガッチリホールドされた反動で傘を手放した。
そして勢いを落とすことなく転落防止柵をいとも簡単に突き破り、男を道連れに落ちてゆく。
影に押されながらも、男は少女の目の前に落ちた傘を指差して、
「お嬢さーん! それ良かったら使ってー!」
と、まだまだ余裕の表情。
「は、はい! って、えぇええ!?」
いや、それどころじゃなくね!?
と言わんばかりに少女は叫んだ。
建物は概ね十階建て。
このままの勢いで地面に落ちたら一溜もない。
落下しながらネクタイを緩めた男は、
「おーい、聞こえるかなー?」
腰に巻きつく少年に呼びかけるが、反応は無い。
悠長にしている間も無く、地面はすぐそこ。
影に腰を固定されて身動きが取れない男。
このままでは後頭部を地面に叩きつけられて即死するだろう。
しかしそれは、彼がただの一般人であれば、という話。
激しい地響きを鳴らしながら、土煙を巻き上げて派手に着陸した二人。
いや、実際は二人ではなく一人。
「ふぅ。大丈夫かな?」
頭を地面に打ちつけるどころか、男は二本の足を大地にめり込ませて着地したのである。
くわえて、影を赤子のように優しく抱き寄せ、気遣いの言葉をかける始末。
男の腕の中で腹を立てた影は歯を食い縛り、釣り上げたばかりのカジキマグロのように跳び跳ねて距離を取った。
「っと、活きがいいなあ! それよりなにかなそのイカした傷!」
相も変わらず余裕綽々な男は、紫に光る電紋に興味を示した。
「…………」
影も変わらず反応無し。
「無視かい……」
肩を落としてしょんぼりした男。
その後、即座に男と肉薄した影は、パンチやキック、あらゆる攻撃を繰り出す。
紫の電紋が描く残像は、もはや幻想的。
一打一打が凄まじい威力だが、男はそれ以上の身のこなしでいとも簡単に避け続けている。
しかしある瞬間、影が一寸の硬直を見せた。
影と言うより、これはヒガサの肉体に限界が近づいているアラート。
言わずもがな、男はその隙を逃さない。
「ソイヤッ!」
お祭りで聞こえてきそうな陽気な掛け声とともに、男は影の足を払う。
そして体勢を崩した影の胸ぐらをガシッと掴み、
「ヨイショォォオ!」
一本背負い。
その背負い投げには一切の容赦は無く、影は10メートル、いや20メートルは飛ばされた。
これにはさすがに受け身を取れず、コンクリートの壁に激突。
しばらくすると、崩壊してゆくコンクリートやら巻き上がった塵やらの隙間から、紫の光が漏れ出す。
「驚いた。まだ立てるのかな」
感心を見せた男の視線の先。
影はまだ闘う意志を見せ、立ち上がろうとしていたのだ。
だが身体はもうボロボロ。
足も震えており、立ち上がっては片膝をついて、というふらつき具合。
それに、外傷だけではなく、直撃雷の影響で内蔵も損傷している可能性もあり、心臓がいつ止まっても不思議ではない極限状態。
言わば、三途の川をバタフライで遡上しているようなもの。
産卵期の鮭でさえ遡上する時の生存確率は数%と言われているのに。
そんな影の様子を見て何かに気づいた男は、
「なるほど。ランペイジか。仕方ない、楽にしてあげようかな」
殺意に満ち溢れた影に臆することなく歩み寄る。
全く警戒せずに目の前に立った男に対して、影は最後の力を振り絞り、正拳を押し出す。
が、先ほどまでキレは無く、弱々しいパンチ。
猫にパンチをさせた方が幾分かマシなほど。
男は、まるで小蝿をあしらうかの如く、影の弱小パンチを軽く払い除けた。
そして今にも倒れそうな影に、
「御免!」
男の拳が顎を捉える。
たったの一発。
男が命中させたパンチは脳を揺らし、見事に影の意識を奪ったのである。
それは主人格であるヒガサの意識を奪うことと同義。
気絶すると同時に、電紋は紫から橙に戻ってゆく。
グタッとなったヒガサを丁重に受け止めた男は、優しく担ぎ上げた。
その後、少女のいる屋上を目指してひとっ飛び。
見事に屋上に舞い戻ってきた男を見て唖然とする少女。
階段からではなく空を飛んできたのだ、驚きを隠せないのも当然。
「待たせたね! 君も一緒に来てもらうけど、いいかな?」
「は、はい……」
斯くして、突如現れた謎のイケメンにより、少年少女は事なきを得たのであった。
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