研究協議会で死角に気づく


研究授業の思い出を少し振り返りたいと思います。
教員2年目で行なった算数の授業、けっこうな数の参観者でとても緊張したことを覚えています。
その後の協議会で、「自分はこう思うが、あなたの指導はどうなのだろうか」としつこく指摘されました。
子どもの実態を踏まえた上での指導であることを繰り返し伝えましたが、なかなか納得していただくことはできませんでした。
水掛け論になったことはさておき、協議会というものをみなさんは、どう考えていらっしゃるでしょうか?

研究協議会について、堀・宇野(2023)は死角という言葉を用いて例示しています。


あなたは自分の「死角」に気づく必要がある。そう指摘される場が研究授業の研究協議なのです。

また、追試について堀・宇野(2023)は現状に警鐘を鳴らしています。


おそらくは先行実践の意図とか背景とかを理解しないままに、自分のテキトーな感覚で修正する追試。先行実践に失礼な追試。


他人の実践をアレンジするのってかなりの力量がいる。少なくともその先行実践をやった人以上の力量は絶対に必要だもの。

この指摘は、自分のことを言われているようで耳が痛くなりました。
・学級開きはどうすればよいのか
・学級目標はどうやって決めるのか
・体育の授業どうしようか
今はインターネットで検索すれば、実践などいくらでも知ることができます。
私はhow toだけ真似し、実践者がどのような思いでその実践に至ったのか考えもしませんでした。
力がある実践であれば、その場は何とか切り抜けることができます。
しかし、1年間というスパンで子どもの成長を捉えると、失礼な追試は子どもの成長に全く寄与していないことがわかります。
自分の思いもなければ、実践者の思いを汲み取ることができていないので、当たり前と言えば当たり前です。
子ども成長が点になっており、線になっていません。
自分の軸をもとに一貫した教育を行う必要があります。
大学院で学ぶ中で「理論」の部分が固まってきたため、その理論をもとにこんな実践したいなと思うことが増えました。
実践する中で、さらに理論をアップデートすることができればと思います。

参考文献
堀裕嗣・宇野弘恵(2023)「教職の愉しみ方 授業の愉しみ方」明治図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?