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アホや未熟で何が悪い

 ゲームにせよ、研究にせよ、スポーツにせよ、参入障壁の高すぎるコミュニティは発展しない。一時期の対戦格闘ゲームやシミュレーションゲームがそうなりかけていた。複雑な操作系やシステム、ルールが中級者の挫折や初心者の心理的な抵抗感を生んでしまった。ハイレベルなプレイヤー同士の対戦は見ていて楽しいものだが、じゃあ自分がやりますか、となると、ちょっとついていけない・・・となってしまう。人前で下手なプレイをさらすのは恥ずかしい、あるいは、そんな自分が対戦の場に立つこと自体場違いで周囲の興をそぐのではないか、そんな思いがよぎると傍観者のままになってしまう。対戦格闘ゲームを悪く書いてしまっているが、これは対戦格闘ゲームだけの話ではない。他のe-スポーツだろうが、昔からあるスポーツだろうが、音楽だろうが、美術だろうが、参入障壁と参加人口はコミュニティの成長を左右する大きな要素だ。

コミュニティを活性化させるアホ

 自分のやったこと、つくったことは未熟、未完だから人にはまだ出せない。そう思う必要はない。不完全だったり間違いや未熟な部分があることで、そこに突っ込みを入れたくなる。これはエンジニアの間で「カニンガムの法則」というらしい。言われてみればこれは直感的には共感しやすい。ネットで見かけるくっそへたくそなゲームプレイの広告や、ゲームセンターCXの有野課長が危ういプレイングをしているのを見ていると、周りが「くぐれ!」とか「飛べ!」とかつい言ってしまうのもそうだろう。ジョジョの奇妙な冒険の4部、岸辺露伴に絡んでくるジャンケン小僧も、授業中の教師の誤りを指摘するのが好きだ。そしてそういった人間の性質をうまく利用しているのがインターネット百科事典のwikipediaである。あれは誰でも編集できるという一見危うくも無責任な仕組みで、実際に見解が分かれて編集合戦をしているような項目もあるのだが、おおむね変な説明や不十分な項目があると、第三者(あるいは本人)が頼みもしないのに追記、修正してくれる。

肩書を隠して対等に活発に議論する

 未熟者やアホがいることでかえって集団全体の理解が進むという可能性もある。先のカニンガムの法則のように、理解不足、説明不足、あるいは誤りを含んだ反応が未熟者やアホから上がってくると、何か言いたくなる。それに加え、アホが放つ素朴な疑問や無知をきっかけに、周囲の知ったかぶりが分かる場合もある。アホや初心者が出す素朴な質問への回答に詰まる、いわれてみると深く考えたことがなかった、そんな時、自称上級者たちは自分たちの思い込みやカビの生えた既有知識を整理しないといけない。無知・未熟であることを恐れずに発信することが、周りを助けている可能性もあるということだ。換言すれば、初心者の発信を聞き入れない、受け流すコミュニティは発展していかない。初心者に何も発信をさせない、許さないなどもってのほかだ。
 ここで1つ変わった研究事例を紹介したい。東京大学の研究チームが実践したもので、子どもたちのグループワークにロボットを参加させるという取り組みだ。しかし、そのロボットは自律的に思考するものではなく、後ろで人が遠隔操作する。そしてその後ろにいる「中の人」は先生だったりする。なぜそんなことをするのか。もし子どもたちのグループワークの中に大人の先生が入ってしまうとどうなるだろうか。正解を出さなくてはいけない、という強迫観念にとらわれたり、発言するつど先生の顔色を探ろうとしてしまったり、悪くすれば間違いを言わないように発言そのものが減るかもしれない。これがロボットになるとどうなるかというと、ロボットそのものの物珍しさから、子どもはロボットに教えを乞うという姿勢ではなく、むしろロボットに自分が教えようというある種の先輩風のようなものを吹かせようとする。その結果、物おじせずに自分の考えをロボットを通して教師に伝えようとする。こうしたロボットを交えたグループ学習の取り組みについては、学習科学の巨人、三宅なほみ先生とその研究チームの功績が大きい。

 以前のエントリーで、ひらめきを支える要因の1つとして「現在状態の適切な評価」を挙げている動的緩和理論の話を紹介した。これは創造的思考に取り組む個人の側についての話だ。その周囲の人間についてもまた、他人の様子をみて学ぶことはないか、自分の独りよがりな理解はなかったかを振り返ることもまた重要だと言える。未熟者やアホの言葉は集団のノイズではなく、議論の求心力を生み出したり、思い込みを見直すきっかけを作ってくれる。アホ、初心者、未熟者を侮ってはならないし、アホでも初心者でも未熟でも手を動かせば誰かを触発し、触発された誰かに触発してもらえる。なので、手を止めてはいけない。

 






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