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雑踏の中の孤独を感じたことありませんか?

例えば、乗車率80%の通勤電車の中・・・・・・・、人の背中が、カバンが、靴が触れるたびに振り返る女性、眉間にシワを寄せ、素顔の形相も怒り顔。

おきまりのイヤフォンは、耳栓代わりか。

そういえば自分自身も、周りの人との衝突を極端に避けようとしている様です。

気持ちがホッとするようなふれあいはなくなり、お互いに迷惑をかけない、干渉しないのがルールになっているのは、なんだか寂しい気持ちがします。

社会は便利になり続けていて、切符を買うこともなく、ICカードでピッ。

一昔前はなら、窓口で「新宿まで大人1枚」と言わなければならなかったのに、時代の進歩が孤独感を加速させているようです。

そう言えば、家から目的地まで、誰とも話すことなく到達できることって、ある意味異常かも^^;

人が増え、家も増えたのにも関わらずにです。

「三丁目の夕日」世代に近い私の子供の頃は、家はポツリポツリで、隣と言っても、真隣りには家はなく、空き地もいっぱいあった。

今では家々がびっしりと建ち、無駄な土地はなく、あっても立入禁止。

電車も街も人でいっぱい。

いっぱいあるから、意識が向かないのかもなぁ~。

いっぱいいるから、関わりたくないのかも・・・・・・

人々は、雑踏の中の孤独を求め、楽しみ、愛する生き物になってしまったのか?

モノと人があふれた現在と当時とでは、どちらが本当の意味での豊かな生活と言えるのか?

今昔を比較するほど知識を持ち合わせていません、自分の幼少時代と、親となった今の子供達を比較することはできます。

昔はモノが少なかったから兄弟、家族、教室、そして社会全体で、多くのものをシェア(共有)していました。

人と一緒に生きる。

生活の中には、人への思いやりがあった様に感じます。

だから待ち合わせの時間つぶしに、隣の家を使わせてもらうこともあったのかもしれません。

今はモノにあふれていて、服やおもちゃもいっぱいあり、収納に困るほどです^^;

これはAちゃんの、これはBちゃんのものと、別々に区別して、自分のモノは自分で管理するということを、親として教えています。

パソコンは一人1台は当たり前。

Web上ではマイページ。

個人を重視したサービスが多く登場し、皆自分の個性を追求する・・・・・・し過ぎる様に思うけど?

一人になりたがり、隠れ家を求めたがり、そして、人との距離感を大事にする。

思いやりを教えるのは難しい・・・・・・

区別することは教えられるけど、一緒ということを教えられてこなかったツケが今現れているのかも^^;

モノと人と情報にあふれているので、それぞれ振り分けは必要だとは思います。

「日本の子供には、もっと孤独を教えないと、思想は生まれませんね。」川端康成(作家)

「多数に追随すれば必ず自分を見失う。孤独を恐れず、したいことを続けるしかない。」安藤忠雄(建築家)

「人間が孤独であることと、この世が無常であることは、生きていく原点なんですね。」瀬戸内寂聴(天台宗の尼僧)

そんな現代社会、とりわけ組織の中だけで物事を考えていると、その中の常識に考えも染まってしまいがち。

自分自身で考え、リスクを負うことができる力をつけていくためにも、時にはそこから離れて、孤独になって物事を見つめなおしてみることも必要ですね。

そして、核となる部分は何かを考えてみるためにも、自分がどうしたいのか、何を目指しているのかが、しっかりとしていなければ周りの影響を受け、自分を見失うことになってしまいなす^^;

周りの意見や情報に振り回されないで、自分の信念をもとに行動していくために、最初から起こりえることだと思って出発すれば、心構えもできるし、ではどうするかだけを考えればよいはず。

さあ、受け入れることで目を未来に向けて、自分が不安に感じていることを受け入れることで、考え方を変えてみませんか?

時にはひとりにもなりたい。

ただ、雑踏の中の孤独を求め、楽しみ、愛するまでになり、その世界に安住してしまうと、気づいた時には、本当の孤独になっているかもしれないから要注意です!

忘れてしまったけれど、忘れてはいけないもの。

一緒に生きる。

今、身近なねぼすけわんこにココロが和む♪のも、時代を反映しているかもね(^^)

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