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【備忘録】私たちはスマートフォンに閉じ込められた「金魚」と同じなのか?

1990年代のウェブ草創期には、サイバースペース独立宣言が高らかに掲げられたように、インターネットの世界は、一種の理想主義のもとにありました。

しかし、ネット上の情報空間は、いまや巨大IT企業が利用者の関心を奪い合う関心経済(※1)の原理が働く場となっており、利用者は、IT企業の収益プログラムに自発的に従属する存在でしかありません。

※1:
アテンションエコノミーとは、人々の関心や注目の度合いが経済的価値を持ち、まるで貨幣のように交換材として機能する状況や概念のこと。
日本語では「関心経済」や「注意経済」と呼ばれることもある。
1969年、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者・経済学者であるハーバート・サイモン氏が、経済が消費経済から情報経済へ移行すると同時に、私たちの限られた「アテンション=注意」が貴重な資源へと変容し、それが「通貨」のように扱われるようになると予測した。
その後1997年に、米の社会学者であるマイケル・ゴールドハーバー氏が、「アテンションエコノミー」という言葉を提唱し、この言葉が広まった。

「デジタルエコノミーの罠」マシュー・ハインドマン(著)山形浩生(訳)

そして、私たちは、電子メールはもちろん、FacebookやTwitterでの関心事、YouTubeやTiktokのライブ配信、NetflixやAmazon Primeの動画、AIに加工された画像等に、四六時中翻弄されつづけています。

この様なネット環境に置かれていると、人それぞれの関心事が内向きではなく外向き仕様となり、それ以外の出来事を疑念の対象と判断する方向へ必然的に導くことになります。

それを回避するための手段として、意思表明に用いられる言葉「かなと思う(※2)」をネット上で使用しています。

※2:
話しことばで使う。
自分の疑問の気持ちをひとり ごとを言うように表す場合、相手に質問する意味を表す場合、「~ないかな (あ)」の形で、「そうなればいい」という願いの気持ちを表す場合がある。

【参考文献】

【参考図書】
「モダリティ」(新日本語文法選書)宮崎和人/野田春美/安達太郎/高梨信乃(著)

ただ、その様な対応だけでは不十分であり、ネット上で自分の関心事が優勢なのは、ソーシャルメディア各社のアルゴリズムが導き出す必然的な結果も含めて、現実の素朴な反映ではないことから、その事実をはっきりと見据え、対策を講じることが必要です。

では、私たちはどうしたら、この従属から逃れてデトックス(解毒)を果たすことができるのか。

それにはまず、「目の前の事実」と「自分の想像」を切り離して、いつも考えられるようになること。

そして、本書のいちばんの読みどころでもある現在に至るデジタル経済が成立してきた道筋そのものを知ることが重要です。

「スマホ・デトックスの時代 「金魚」をすくうデジタル文明論」ブリュノ・パティノ(著)林昌宏(訳)

さて、本書は、医学的視点を踏まえた上で、IT企業の収益システムや社会的な問題をも視野に入れて議論を展開しています。

グーグル社のある社員が欧州のメディア企業に向けて行ったプレゼンテーションの中で、ミレニアル世代と呼ばれる現代の若者の注意持続時間は、金魚と同じ9秒程度だと推定していました。

それは金魚より1秒間長いだけ。

通信技術は、われわれに無限の世界を約束した。サイバースペースを制限するのは人間工学の限界だけだと喧伝された。ところが、われわれはスマートフォンの画面という鉢に閉じ込められ、プッシュ通知とインスタント・メッセージに隷属する金魚になってしまった。(本書16ページ)

このエピソードが本書の不思議な副題の由来ですが、これは誤りです(^^)

【参考記事】

アナログ・データにしろ、デジタル・データにし、それがどんなデータなのか知りもせずに、私たちの行動意識は、日々、自身の関心事であるデータにトラッキングされています。

要するに、真に欲しいもの、真に価値あるものを私たちはもはや選ぶことができない、ということにつながりかねないデジタル(虚構)の世界が存在している可能性もあるのではないでしょうか。

ここで、視点を切り替えて考えてみると、人間は、環境の奴隷なのかもしれません。

SNS上のデジタル・データは視覚から取り込まれますが、私たちは、その取り込んだデータで「動く」のではなく、「動かされている」可能性があります。

視覚によって、自分は静止しているにもかかわらず、移動しているかのように感じる錯覚になる現象を心理学で「ベクション(視覚誘導性自己運動感覚)」と呼びます。

「ベクションとは何だ!? 共立スマートセレクション」妹尾武治(著)鈴木宏昭(コーディネータ)

ガリレオが地動説を唱えるまで、地球こそが世界の中心であり、太陽等の天体が周囲を動いていると考えられていましたが、地動説という科学的な見解の登場により、地球は、世界の中心でも主体でもなく、客体に過ぎないことが判明しました。

このベクションに見られるように、人間も客体であって環境に動かされる存在なのだと言えます。

例えば、何かを食べる行為をしたとします。

何かを食べるという行為は、自分自身の選択だと思うかもしれません。

しかしながら、自分の意思ではなく、何某かの外界からの影響によって何かを食べるという行為に向かわされている。

すなわち、広義の意味で、SNS上の行為も、人間に自由意志はなく、(デジタル)環境の奴隷であると考えることもできます。

そう考える理由として、何かを検索して、主体的に情報(関心事)を有効に利用しているのか?との問いに対して、それとも、その検索行為自体がデータとなって次の行動を促されることになってしまっているのか?といった問いも考えられますよね。

そう考えると。

使っているのか?

使われているのか?

それが問題になってきて、それに対する答えの方向性として、本書には、このヘンリー・キッシンジャーの印象的な言葉が引用されています。

「人間を支配する恐れのある技術は誕生したが、われわれはこうした技術を司る哲学を持たない」(本書149ページ)

それには、デジタル文明を軌道修正する理想と長期的視野を社会的に涵養する(国家による最低限の規制、デジタルリテラシーを高める教育、公共メディアの強化等)ことが必要だと考えられます。

つまり、前述のベクションから考える自由意志の問題の様に、哲学や心理学、そして科学は、法や道徳から離れて、通常とは異なる角度でものを見る視点を提供する学問でもあるのです。

それらの学問も有効活用して、デジタル社会を軌道修正するために何が必要かを熟考し、時代の高さに見合った哲学を見出すこと。

それが、今、私たち一人ひとりに望まれているものではないかと考えています。

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