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【短歌(その2)】「枸橘の棘に守られて咲きたる白き花達」

「花びらを模した君の手ふうわりと枸橘(からたち)の花二花(にか)包み込む」

同じ短歌でも読み方や解釈の仕方が人それぞれなので、自分が作った短歌にも「そんなおもしろい解釈があるのか!」と発見があると楽しいよね(^^)

たとえば、松尾芭蕉の有名な句、「古池や 蛙飛び込む 水の音」

正岡子規は、蛙の数を英訳する際に「a frog」と、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「frogs」と訳しています。

また、高浜虚子も複数の蛙が飛び込んでいると解釈しています。

これって、現実的ではないけれど、なんとなく感覚的にわかる、言葉でしか表せないような世界を表現できるのがおもしろいところですね(^^)

そうそう、俳人・富澤赤黄男の句に、

「恋人は 土竜(もぐら)のやうに 濡れてゐる」

という句があります。

「もぐらのように濡れている」って(@@)

なんなんだ???

ちょっと意味がわからないけれど^^;

なんとなくだけど、じめーっとした感じ?は伝わってきますよね。

もしかしたら、思いもよらなかったようなものも含めて、さまざまな解釈が出てくると思うけど。

それらの解釈はすべて正解として許容するのが俳句の世界。

おもしろいですよねぇ(^^)

話がそれちゃったけど、そして、同じ言語を与えられた人でも。

言葉の選び方によって全く違う風景を構成するなんて。

とても不思議です(^^)

そこに、俳句・短歌・川柳・詩を読む楽しさがあると思いますって書きながら。

あんまり解っていないけどね(^^;

この短歌のモチーフは、北原白秋「からたちの花」です。

「からたちの花」の歌詞の内容は、山田耕筰と北原白秋の人生経験に根ざしたもの。

単純な自然描写ではなく、「からたちの花」に託した叙情詩ですね。

「からたちの花」北原白秋

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげは痛いよ。
青い青い針のとげだよ。
からたちは畑の垣根よ。
いつもいつも通る道だよ。
からたちも秋は実るよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。

詩の色彩表現がとても豊かです。

無垢の象徴である「白」。

未熟を暗示する「濃緑色・緑」。

そして円熟の「金」への変化。

季節や歳月の移り変わりを巧みに表現しています。

森麻季「からたちの花」

詩や短歌、童謡などさまざまなジャンルで数多くの名作を残した北原白秋。

24歳の時に初めて刊行したのが、並外れた語彙、感覚を言語化した詩集「邪宗門」(明治42年刊)。

「美の魔睡 邪宗門」北原白秋(著)谷村鯛夢(編)大川裕弘(写真)

その冒頭にある

「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。

かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。」

という主張は、当時盛んだった象徴詩の流れをくむものです。

西洋の象徴詩を紹介した上田敏の「海潮音」にも大きく影響を受けています。

この「邪宗門」をいち早く取り寄せた詩人である室生犀星は、

「活字というものがこんなに美しく巧みに行を組み、あたらしい言葉となって、眼の前にキラキラして来る閃めきを持つ」

と読後の感激を回想していました。

【参考図書】
「北原白秋 言葉の魔術師」(岩波新書)今野真二(著)

また、北原白秋は、言葉があふれ出る人でした。

さまざまなイメージを言語化して詩や短歌、童謡など異なる器に盛りつけていったそうです。

語彙の豊富さも特徴的で、森鴎外がいかに漢語を多く知っていたかというようなこととは違い、偏りなく網羅的に言葉を知っていたそうです。

北原白秋は国語学者、大槻文彦編纂の辞書「言海」を愛読していました。

「すばらしい詩は、辞書をくる苦しみから生まれるものだ」といった言葉も伝えられていて、私が、最近作った自由詩なんて恥ずかしい限りです^^;

並外れた語彙は、絶え間ない努力で強化されたものだったんですね。

この姿勢は、とても勉強になります。

さて、童謡を含めて日本の近代に歌謡曲は、メロディと日本語の語感を一致させることを作曲の前提としていました。

最近では、どうだろう?

作為無作為に問わず。

これから外れた歌曲が溢れているように感じます。

「からたちの花」のように、短い詩で豊かな情感を伝えることが日本語では可能ということ。

理解しようとするのではなく。

そこに広がる世界にただ浸ってみればいいって感覚は大切ですね。

紙に書かれた単なる言葉たちが。

それを受け取った人の想い出や想像力と重なることで果てしない世界をつくり上げる。

そんな歓びや悲しみ等が感じられるので。

詠むより、やっぱり、読む方が好きかな(^^)

北原白秋が、どの様に言葉と向き合ってきたのかは、想像の域を出ないけど、言葉を表現するときの想いは、こんな感じではなかったかと推量します。

言葉は多くのものを削ぎ落としてしまいます。

そのため、削ぎ落された言葉だけ見たら、心に突き刺さる「棘」の様に見える事も有ります。

それでも言葉で伝えたいものがあるとき。

「いま一番伝えたいこと」を書く。

そこには、相手をわかりたいと想う気持ちと優しさが込められているはず。

その時、言葉は、本当の力を発揮するのだと、そう思います。

そうであれば、本当の言葉は、たぶん、本当の心と同じだと思う。

気をつけねばと心を引き締めたい、とも思っています。

それは、詩・俳句・短歌・川柳を詠むことも、そして、文章を書くことも同じではないかと。

楽しくないのに楽しそうにする。

嬉しくないのに嬉しそうにする。

そのうち楽しくなる。

嬉しくなる。

作られた感情ほど愚かで危ないものはない(^^;

そんな想いで書かれた言葉も、たぶん、おもしろくもない(^^;

おもしろいってのは、とても深いなって思っています。

楽しいってのよりも。

好きってのよりも。

ずっと深いなぁ~って、そう思っています。

だから、味わうこと、味わうこと。

理解するのではなくて、味わうこと。

だからこそ、書かれなかった言葉はなんだろう?

書きたい言葉を、どう表現すれば良いんだろうか?と。

詩、俳句、短歌にしても。

また、小説、エッセイ、何気ない文章にしても。

それを、私は、一番表現してみたいし、知りたいと思っています。

そのためにも、じっくり味わうことを、心からおもしろく楽しまないとね(^^)

そんな思いで、まず、私の感覚で味わって、必要に応じて、その都度、認知バイアスを修正しながら、これからも書いて行きたいですね。

「知る者は 好む者に 如かず 好む者は 楽しむ者に 如かず」

それが何であるにせよ。

「これを楽しむ」ことが、何かをやりとげる原動力になるように思います。

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